■鎌倉時代の求法上人義空
世界ふしぎ発見、という38年にも及んだ人気クイズ番組が先週最終回を迎えましたがここ京都を散策しますと歴史の不思議はまだ数多で。
千本釈迦堂は、捻じれた様な歴史の妙と言わざるを得ない紆余曲折を幾つも経て、敢えて乗り越えたとは云わない、今日も凛としたたたずまいの堂宇とともに迎えてくれる寺院で、日々門扉を拝観者に開放する御山の飾らない歴史には奥行き深く感じます。
義空、求法上人義空により創建された寺院となっていまして、それは鎌倉時代初期の承久3年こと西暦1221年、そしてこの創建に尽力しました求法上人義空さんはもともと比叡山において厳しい修行を収めたとともにその祖父はあの藤原秀衡さんであったのですね。
藤原秀衡、そう奥州藤原氏最盛期を飾ったあの藤原秀衡の孫となっていまして、いや実は不思議な時代、日本に複数の首都があったとさえ解釈できる平安朝末期の時代に奥州へ栄華を飾った奥州藤原氏、源義経を歴史が扱う際には必ず示されるあの奥州の。
治承・寿永の乱ではあの源義経の養父となりまして、そして源義経が兄頼朝の号令に付き従い出立を決めた際には、惜しみながらも家臣佐藤継信忠信兄弟を家来につけ、見送った一方、鎌倉幕府開府の後には源頼朝との決定的対立を危惧しつつ逝った武将だ。
源義経との関係はその名の通りであり、藤原秀衡没後には奥州藤原氏は幕府との全面対立となり滅亡しています。しかしその孫である求法上人義空が、祖父が奥州平泉に拓いた無量光院のような華美な堂宇ではなくとも、洛中に堂宇を開いたことは印象深い。
後白河法皇、歴史の字面だけを俯瞰しますと奥州藤原氏は幕府にとり謀反人であった源義経を匿ったことで滅亡の端緒となった訳ですから、何故洛中に寺院を、と思うところですか、藤原秀衡は生前に後白河法皇との関係も重視していて院近臣も輩出していた。
大報恩寺の堂宇が小さくとも確と開かれた背景にはこうした歴史の妙があるのですね。一方、もう一つの歴史の妙とは、山名氏清と山名宗全との関係と、そして切り離せない応仁の乱との関係です。応仁の乱は、日本的というほどに分かりにくく、傍迷惑だ。
山名宗全、応仁の乱そのものは幕府が将軍職の形骸化を進めるとともに集団指導体制により権力闘争を次第に進めるという不安定な中で管領家の畠山氏と同じく管領家の斯波氏それぞれの家督争いが巻き起こり、実に11年間、イラク戦争並みに続いた戦争で。
千本釈迦堂はその隣に山名氏清の慰霊塔と、そして山名宗全の持仏堂がありまして、その関係で山名宗全はこの堂宇について、何があっても守るべしと号令を発した事で、西陣という今の地名からも指呼の距離にありながら堂宇は戦災を免れた、という。
山名陸奥太守氏清之碑や持仏堂としての不動明王堂なども堂宇として維持されています。もっとも、ここはいまおかめ桜が満開という状況でして、そして境内は決して広い訳ではないのですがおかめ桜の桜花からは若干遠く、なにか戦災への忌諱も感じます。
戦災への忌諱というのは、堂宇をここ一つ護るよりも何故京都はもちろん全国に飛び火し焦土戦になるような内戦を放置したのかということで、ただ、権力集中を避け、言い換えれば、だれが責任者なのかを曖昧とする日本の気風そのものには今も危うさが。
責任はわたしがとる、という発言を好む方も決断が成功した場合は成功の果実を独占しますが失敗した場合は責任を取らない事が多い、だから会議により良案を探るよりも責任の分散を図る、お前も同意したろう、と。木々の並びにそんな錯覚を感じました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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世界ふしぎ発見、という38年にも及んだ人気クイズ番組が先週最終回を迎えましたがここ京都を散策しますと歴史の不思議はまだ数多で。
千本釈迦堂は、捻じれた様な歴史の妙と言わざるを得ない紆余曲折を幾つも経て、敢えて乗り越えたとは云わない、今日も凛としたたたずまいの堂宇とともに迎えてくれる寺院で、日々門扉を拝観者に開放する御山の飾らない歴史には奥行き深く感じます。
義空、求法上人義空により創建された寺院となっていまして、それは鎌倉時代初期の承久3年こと西暦1221年、そしてこの創建に尽力しました求法上人義空さんはもともと比叡山において厳しい修行を収めたとともにその祖父はあの藤原秀衡さんであったのですね。
藤原秀衡、そう奥州藤原氏最盛期を飾ったあの藤原秀衡の孫となっていまして、いや実は不思議な時代、日本に複数の首都があったとさえ解釈できる平安朝末期の時代に奥州へ栄華を飾った奥州藤原氏、源義経を歴史が扱う際には必ず示されるあの奥州の。
治承・寿永の乱ではあの源義経の養父となりまして、そして源義経が兄頼朝の号令に付き従い出立を決めた際には、惜しみながらも家臣佐藤継信忠信兄弟を家来につけ、見送った一方、鎌倉幕府開府の後には源頼朝との決定的対立を危惧しつつ逝った武将だ。
源義経との関係はその名の通りであり、藤原秀衡没後には奥州藤原氏は幕府との全面対立となり滅亡しています。しかしその孫である求法上人義空が、祖父が奥州平泉に拓いた無量光院のような華美な堂宇ではなくとも、洛中に堂宇を開いたことは印象深い。
後白河法皇、歴史の字面だけを俯瞰しますと奥州藤原氏は幕府にとり謀反人であった源義経を匿ったことで滅亡の端緒となった訳ですから、何故洛中に寺院を、と思うところですか、藤原秀衡は生前に後白河法皇との関係も重視していて院近臣も輩出していた。
大報恩寺の堂宇が小さくとも確と開かれた背景にはこうした歴史の妙があるのですね。一方、もう一つの歴史の妙とは、山名氏清と山名宗全との関係と、そして切り離せない応仁の乱との関係です。応仁の乱は、日本的というほどに分かりにくく、傍迷惑だ。
山名宗全、応仁の乱そのものは幕府が将軍職の形骸化を進めるとともに集団指導体制により権力闘争を次第に進めるという不安定な中で管領家の畠山氏と同じく管領家の斯波氏それぞれの家督争いが巻き起こり、実に11年間、イラク戦争並みに続いた戦争で。
千本釈迦堂はその隣に山名氏清の慰霊塔と、そして山名宗全の持仏堂がありまして、その関係で山名宗全はこの堂宇について、何があっても守るべしと号令を発した事で、西陣という今の地名からも指呼の距離にありながら堂宇は戦災を免れた、という。
山名陸奥太守氏清之碑や持仏堂としての不動明王堂なども堂宇として維持されています。もっとも、ここはいまおかめ桜が満開という状況でして、そして境内は決して広い訳ではないのですがおかめ桜の桜花からは若干遠く、なにか戦災への忌諱も感じます。
戦災への忌諱というのは、堂宇をここ一つ護るよりも何故京都はもちろん全国に飛び火し焦土戦になるような内戦を放置したのかということで、ただ、権力集中を避け、言い換えれば、だれが責任者なのかを曖昧とする日本の気風そのものには今も危うさが。
責任はわたしがとる、という発言を好む方も決断が成功した場合は成功の果実を独占しますが失敗した場合は責任を取らない事が多い、だから会議により良案を探るよりも責任の分散を図る、お前も同意したろう、と。木々の並びにそんな錯覚を感じました。
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