■今も現役!松平秀康の福井城
城郭は日本中に現存天守閣に城址公園や復興天守として親しまれる郷土の情景ですが、まだ使っている城郭というものもある。
福井城。柴田勝家が天正3年の西暦1575年に造営しました城郭です。福井城は北陸本線福井駅から指呼の距離に位置していまして、実は柴田勝家の福井城は北ノ庄城という、ここも駅から近傍に城址があるのですが、この北ノ庄城を江戸時代に拡張したものともいう。
城下町なのだなあ、と痛感しますのは福井駅の駅前広場、恐竜が唸りを挙げる摩訶不思議な空間ではあるのですけれども、この駅前通りを県庁へ、と歩んでゆきますと近代的すぎる駅前から徐々に昔風情の横丁が広がり、その向こうがお堀の向こうの福井城、ひろがる。
県庁に県警本部、上司というには近代的な建築物が並ぶ不思議な情景の背景には明治維新後に福井県庁、そして現在は県警本部が城址に造営される事となり、いわば近代都市の景観の一部として永らえたもの。言い換えるならば“まだ使用中の城郭”といえましょう。
重厚な石垣と壮大な掘割、破却され市街地に埋もれた城址が数多歴史にのみ名を残す中に在って、ここ福井城は天守閣や櫓こそ失われてはいるのですが、城郭の威容を今日に伝える遺構は充分に整備されている、というべきでしょうか。そしてこの城の歴史も実に長い。
朝倉氏、北近江越前戦国の実力者、織田信長に敗れた安土桃山時代の分岐点その一つですが、元々この朝倉氏も越前統治へこの地に城郭を造営していまして旧臣前波長俊が居城としていました。柴田勝家は朝倉氏滅亡後、信長よりこの地を49万石として所領を贈られる。
天守閣代わりの県庁や県警本部と共に、しかし歴史を紐解きますと城郭としての福井城天守閣もかなり大きかったようです、残念ながら現存しないが柴田勝家は結城氏所領時代には実質武家館であった城郭を大きく拡張し、天守閣に七層の重厚な平城を造営しています。
柴田勝家の天守閣、北陸の虎と称された武将故に巨大さが垣間見えるのですが、七層天守閣というものは中々に驚かされる事です。実際その規模の大きさ、ルイスフロイスの歴史書に、かの安土城に比肩し、また城下町の規模ではこれを凌いでいる、と記しているほど。
賤ヶ岳の戦い。天正年間の西暦1583年、北陸の虎柴田勝家は織田信長没後に豊臣秀吉との勢力争いに賤ヶ岳で敗れ滅亡し、柴田勝家は自害の際に城に火を放ち、妻お市の方とともにこの地に散りました。この際に城郭は完膚なきまでに焼失、天守閣もこの時に焼失する。
丹羽長秀の時代、賤ヶ岳の戦いののちにこの地は丹羽長秀が治める事となります。ただ、丹羽長秀の根拠地は若狭地方、ここに越前加増、という差配が為されましたので福井城の再興には残念ながら至りません。その後に堀秀政、続いて青木一矩の領地ともなってゆく。
北ノ庄城として福井城が再興されましたのは天下分け目の合戦、咳がはあの戦いの後です。家康次男の結城秀康が勲功大としまして68万石にて越前を付与されると共に城郭再建が始り、柴田勝家の天守閣から現在地に本丸を造営、その最中に結城秀康は松平秀康と改める。
松平秀康の福井城は四重五階の天守閣を造営します。ただ、こちらも惜しい事に文9年の西暦1669年に火災により焼失し、この後に天守閣は再建されていません。さて、この際に永らくこの地は北ノ庄と称されていましたが、城内の井戸、福の井に併せ地名が変ります。
福井、この地名は北ノ庄から改まりまして、今に至ります。残念ながら明治維新と陸軍進駐、そして元半紙による城郭開墾により、石垣と掘割を除けば建物は無くなり、今日に至ります。ただ、県都デザイン戦略として2008年より周辺観光整備として復元が始りました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
城郭は日本中に現存天守閣に城址公園や復興天守として親しまれる郷土の情景ですが、まだ使っている城郭というものもある。
福井城。柴田勝家が天正3年の西暦1575年に造営しました城郭です。福井城は北陸本線福井駅から指呼の距離に位置していまして、実は柴田勝家の福井城は北ノ庄城という、ここも駅から近傍に城址があるのですが、この北ノ庄城を江戸時代に拡張したものともいう。
城下町なのだなあ、と痛感しますのは福井駅の駅前広場、恐竜が唸りを挙げる摩訶不思議な空間ではあるのですけれども、この駅前通りを県庁へ、と歩んでゆきますと近代的すぎる駅前から徐々に昔風情の横丁が広がり、その向こうがお堀の向こうの福井城、ひろがる。
県庁に県警本部、上司というには近代的な建築物が並ぶ不思議な情景の背景には明治維新後に福井県庁、そして現在は県警本部が城址に造営される事となり、いわば近代都市の景観の一部として永らえたもの。言い換えるならば“まだ使用中の城郭”といえましょう。
重厚な石垣と壮大な掘割、破却され市街地に埋もれた城址が数多歴史にのみ名を残す中に在って、ここ福井城は天守閣や櫓こそ失われてはいるのですが、城郭の威容を今日に伝える遺構は充分に整備されている、というべきでしょうか。そしてこの城の歴史も実に長い。
朝倉氏、北近江越前戦国の実力者、織田信長に敗れた安土桃山時代の分岐点その一つですが、元々この朝倉氏も越前統治へこの地に城郭を造営していまして旧臣前波長俊が居城としていました。柴田勝家は朝倉氏滅亡後、信長よりこの地を49万石として所領を贈られる。
天守閣代わりの県庁や県警本部と共に、しかし歴史を紐解きますと城郭としての福井城天守閣もかなり大きかったようです、残念ながら現存しないが柴田勝家は結城氏所領時代には実質武家館であった城郭を大きく拡張し、天守閣に七層の重厚な平城を造営しています。
柴田勝家の天守閣、北陸の虎と称された武将故に巨大さが垣間見えるのですが、七層天守閣というものは中々に驚かされる事です。実際その規模の大きさ、ルイスフロイスの歴史書に、かの安土城に比肩し、また城下町の規模ではこれを凌いでいる、と記しているほど。
賤ヶ岳の戦い。天正年間の西暦1583年、北陸の虎柴田勝家は織田信長没後に豊臣秀吉との勢力争いに賤ヶ岳で敗れ滅亡し、柴田勝家は自害の際に城に火を放ち、妻お市の方とともにこの地に散りました。この際に城郭は完膚なきまでに焼失、天守閣もこの時に焼失する。
丹羽長秀の時代、賤ヶ岳の戦いののちにこの地は丹羽長秀が治める事となります。ただ、丹羽長秀の根拠地は若狭地方、ここに越前加増、という差配が為されましたので福井城の再興には残念ながら至りません。その後に堀秀政、続いて青木一矩の領地ともなってゆく。
北ノ庄城として福井城が再興されましたのは天下分け目の合戦、咳がはあの戦いの後です。家康次男の結城秀康が勲功大としまして68万石にて越前を付与されると共に城郭再建が始り、柴田勝家の天守閣から現在地に本丸を造営、その最中に結城秀康は松平秀康と改める。
松平秀康の福井城は四重五階の天守閣を造営します。ただ、こちらも惜しい事に文9年の西暦1669年に火災により焼失し、この後に天守閣は再建されていません。さて、この際に永らくこの地は北ノ庄と称されていましたが、城内の井戸、福の井に併せ地名が変ります。
福井、この地名は北ノ庄から改まりまして、今に至ります。残念ながら明治維新と陸軍進駐、そして元半紙による城郭開墾により、石垣と掘割を除けば建物は無くなり、今日に至ります。ただ、県都デザイン戦略として2008年より周辺観光整備として復元が始りました。
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