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【京都発幕間旅情】大阪城,南海トラフ地震と城郭-城址公園の防災拠点としての意義

2024-10-02 20:01:45 | 旅行記
■大阪城と防災拠点
 城郭の歴史よりはなにかコラム的なものとなっているのですけれども。

 城郭と防災、日本ではこの分野をもう少し考えてほしいように思う。大阪城が災害に強い立地であることは、上町台地の上に位置する関係で既出だけれども。例えば南海トラフ地震で最大の被害が想定される高知市は、高知城が確実に生き残る標高にある。

 大阪城と高知城のほかに、やはり津波が襲来する和歌山市も和歌山城は台地のうえにあって、独立峰のようにまわりに高台がないので津波が襲来した場合でも横にそれて標高が49mある和歌山城はほぼほぼ津波被害から安全と考えてまちがいありません。

 南海トラフ地震ではやはり津波の直撃を受ける徳島市も、これはまわりに高台といいますか山に面しているので城址に逃げ込む必然性は必ずしもないのですが、徳島城は標高が61mある。岸和田城と尼崎城は、ちょっと防災評価の必要がある高さだけれど。

 一国一城令が江戸時代に発布されるまえには数多くの城郭と城塞、砦なんかがあったわけですが、特に国境監視の城塞は高台にあるところが多く、ここに、復元天守でも櫓でも建設するとともに観光施設兼用の防災備蓄倉庫とできれば、と考えるのですね。

 平成時代の行政改革で無駄を省きすぎて公共投資を抑えたことが、阪神大震災や東日本大震災など複数ある平成以降の低成長時代に影響したようにおもえまして、これは建設省を国土交通省に切り替えてしまったことが無関係では無いように思うのです。

 大阪城造営をはじめ、いやこの場合は大坂城か、豊臣政権時代の大阪は莫大な公共投資により好景気を、官製需要は限界が来るものなのだけれども、次の発展の土台を造ったことは確かです。そして、平成時代では公共投資が鈍った、低成長が続いた、と並ぶ。

 国土強靱化計画、もちろん防災をメシノタネにすることへの批判は受け止めねばならないことなのでしょうが、たとえば郷土史とか遠足とかで地元に城址公園があれば義務教育の時代から通うことは確かです、知っている場所となる。そこが避難所になれば。

 天守閣というのは有事に備える防災倉庫です、とは姫路城天守閣で説明されていたところか、模造銃ですが火縄銃がずらりならび中世のYAMAMOTOとかFirstのような感じとなっている様子をご覧になった方、も多いでしょうが、あの倉庫が平時の天守閣でした。

 現代の城郭構造も、高台に城址公園を整備して連絡道路を確保するという前提ではあるのですが、櫓を寝泊まりできる避難所として、そして天守閣などを防災倉庫として、平時は格納している可搬式太陽光発電パネルや毛布や非常食などを備蓄しておけないか。

 非常食は数年で消費期限が過ぎる、と反論されるかもしれませんが、そういうものはお城祭り、という感じで有償提供してしまえばいいのです、大人数用保存スープとか大型の缶詰とか、備蓄米とか、最近は非常食もまともな味のものが増えているから。

 のぼうの城、忍城を舞台に安土桃山時代、石田三成の大軍勢を相手に籠城戦を戦い抜いた映画がありましたが、あの映画では周辺住民を場内で保護し籠城していました、大災害に対してもああいう構図をとれる城址公園が全国にあればなあ、と思うのですね。

 普通に避難所を増やせばいいだけ、という反論もあるかもしれませんが城址公園ならば観光名所として維持費を自弁できる余地が生まれますし、避難所を子供の遊び場や遠足の目的地とするには限界がありますが、城址ならば平時から人が集まる場所となるのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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