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昨晩も「アンの青春」のDVD(ケビン・サリバン監督)を観て、今日も睡眠不足気味である。このDVDで、サマーサイド高校でのアンが教師として働く話がでてくるが、その中で怖いキャサリン・ブルック先生がでてくる。当然アンにとっては天敵のような存在であるが、そのキャサリンを自分のグりーン・グレイブズに誘い、そこで心を徐々に開き和解していく場面は素晴らしかった。
嫌いな(感情面で)人でも、その基本的人格というか魂を認め、接していくのは古今東西共通の和解への原則だと思うが、そこがなんとも素晴らしく、心をうつ。
どんな人でも、愛そのものがたとえ見えなくても隠れているはずだと考えるか、自分の感じたとおりの邪悪そのものだと認めるかは和解や受容という意味では決定的に違う結果をもたらす。そして、それを意識すると宗教とか哲学の大切さに気付いたり、自分だけでなく他者の生育史の大切さに気付いたりする。生育史の深い理解は、よりゆるせるようになる鍵ではないだろうか。
さて、とは言ってもまずは人間をどのように理解するか。U先生は生き甲斐の心理学で大切にしている人間観を次の式で表した。勿論欧米の宗教・哲学の影響が多いが、日本でもこうした思想は、古代から脈々と流れているようにも最近感じている。
A=B(X+Y)
A: ある特定の人そのもの
B: ある人の魂(愛そのもので、死んだときに身体から離脱する生命体、宗教の対象)
X: ある人の生育史(臨床心理学の対象)
Y: ある人の身体(医学の対象)
赤毛のアンが深いところで日本人の心を打つのは何だろうかと思う。一言でいうと、もののあはれ・・・かなと思う。まだ、思索がたらず、こうしたビックワードはちょっと危険な感じがするが。
アンがサマーサイド高校で経験するプリングル一家との葛藤、ある意味でのいじめ。話は変わるが源氏物語での弘徽殿の女御と桐壷の更衣の葛藤。違うようで似ている何かがあるようにも思ってしまう。
友好的感情を育てるには、紋切型の規律ではなく、それを越えた人を大切にする「もののあはれ」が必要なのだと思う。
幸福曲線を辿る ② 10/10