NHKの教育放送の「日本の面影 小泉八雲」(100分de名著)の録画を昨晩観た。今回は「盆踊り」で、八雲が来日し出雲に赴任する途中で鳥取の上市で盆踊りを観た体験について池田雅之先生からの解説が素晴らしかった。
古代の日本を体感する上で、盆踊りに着目する人は多いようだ。私のように主に縄文中期に興味を持っている人は、当時の村の在り方に興味を覚える。お墓と言えば、村の傍らに特別なエリアとして存在するのが一般であるが、それは縄文後期以降のことだ。そして、縄文中期の村では中央広場があり、そこにお墓があることも多かったようだ。その中央広場を囲むように竪穴式住居が円形に並ぶ。そんな風景が一般である。私の家の近くの446遺跡もそうした典型的な村であり、よく近くを通ると不思議な気がするのだ。
村の中央に墓があるということは、祖先の魂と生きているものが一緒に暮らすような意味合いがあるようなのだ。
八雲が興奮して観たのは、この死者と一緒に踊るような盆踊りの不思議である。生者と死者の魂の通い合い・・・。盆踊りのメロディーに関しても踊りに関しても、八雲の眼は実に鋭く本質をついているようだ。メロディーについては、縄文の音楽を研究されている方の論文を読んだことがあるが、例えば笛は、きちっと西洋音階のような音を出すのではなく、石笛のような不思議な音を出すようにわざとつくられていると聴いたことがある。そんな盆踊りに触れて、八雲の感情は深く響いたようで、次のような感情に対するすばらしい知見を披露している。
そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振しるものではないだろうか。
八雲は母がギリシャ人、父がイギリス人であり、日本に来る前も世界各国を旅している実に比較文化や比較宗教を語るにふさわしい経歴の持ち主である。その八雲の知見は驚くほど深い。当時の考古学は始まったばかりであり、縄文中期の広場や円が縄文人の思想と関係していることなど、何も知らなかったはずなのだが、まるで観ているように直観している。
五感・体感と縄文 3/10