夏休みの初日(5日)。妻を送り出してから、都区内に出かけ一つ用事をすませて、上野の「空海と密教美術展」に一人で行った。知人に空海の書のことを聞いたこともあるが、8年前に会社をやめてから結構、密教や空海にも興味を抱いてきた。会社を辞めてすぐに、高野山に行ったり、昨年も東寺を見学したりした。
生き甲斐の心理学を学ぶなかで、比較宗教学を勉強したり、純粋に美しいものを五感で体感し味わう味を覚えたことで、興味も加速しているようだ。
昔は、美術館に行くと、パンフレットを読み、説明パネルを熟読したりしたものだが、最近は、見学する前や見学中はなるべく見ないようにしている(さっと見る程度)。また、音声ガイド・サービスなども敢えて聴かない。一次情報を大切にし、自分の五感・体感を大切にしたいと思うからである(還暦を過ぎ、読んでもすぐに忘れることもあるが(笑))。
では、今回の私の感想(単なる一市民のかってな感想で申し訳ないが)をさっと述べたい。
空海の書の展示は、当然ながら国宝級であるのでガラスごしに見るのであるが、そのガラスが沢山の人が触ったりで汚れていた。が、私が見始めてすぐ、清掃のおばさんが、さっときれいに拭き取ったのは鮮やかであった。清掃のおばさんも、ちょっとしたスターのようで(それは、皆感謝するわけで)あった。
空海の書は、パネル説明にもあったが、行替えの時の、行末の文字の調整(少し小さく書いたりなど)を見ると、何かバランス感覚というか、そういう感覚の鋭さやある時はおおらかさも(お経意外の書などで)感じた。最澄の書(有名な同時代の僧)もあり、空海との性格の違いがよくでていると思った。理趣経を見せる見せないで行き違いがあったのも当たり前かもしれない。
さて、昨晩、たまたま終戦直後に、占領下で公用語を英語にするという司令がもうすこしで発令するというテレビのドキュメントを見たが、漢字や書と縁が遠くならなくて本当によかったと思う(蛇足だが)。
さらに、感激したのは、仁和寺の本尊の阿弥陀如来像である。仁和寺は関西に都合6年住んでいたのに、一度も行ったことのないお寺であったが、丁度、吉川英治の新平家物語を読んでいて、たまたま平治の乱の大事な舞台であることを知った。
平治の乱で、清盛がいない間にクーデターを起こした中心人物、信頼(かなりの問題の人)が戦いに負け、ぶざまにも後白河上皇をすがって、駆け込んだのが仁和寺だった。そして、おなじような公達と共に一網打尽で清盛に捕らえられた場所でもある。
その舞台、当時の重要人物達が、きっと折々に拝んだ仏像を拝見していると思うと何かじんとくる。9世紀は阿弥陀信仰が貴族の間で人気があったことも思い出したりして・・・
大阪の交野のお寺にある、薬師如来像(国宝)も初めて見たが、ドキッとするほど良かった。なんでだろう?
東寺の講堂にある仏像(曼荼羅)も8点展示されていた。仏像を裏からも全方位で鑑賞できるようになっていて、また、1200年近くの歳月も流れているのに、塗料もうっすら残るところが見えるなど、本当に良かった。昨年東寺で印象的だった帝釈天騎象像も入っていた。
最近は、多摩動物公園で動物観察をよくしているが(心理学の勉強もあり)、象や鳥を当時の人がどのように表現したのか興味をもったが、相当リアル。象は日本に初めて渡来したのが室町時代とされているが、製作者は実際に象をみたのではないか思った。
今日は、とりとめのない内容になってしまったが、上野で関西に行くより、意外にもリアルかもしれない美術展の感想を述べさせていただいた。9月の終わりごろまで開催されているので、五感・体感で好き・嫌いをリアルに感じつつ、また見にいきたい。
旅 6/10