写真は多摩川の上流の大栗川が太田川に分かれる八王子市松木周辺の写真である。縄文小説を書く上でとても気になるのは川の存在。特に縄文前期や中期などは縄文海進もあり、海や川がどうなっていたのかを推測できないと全く書けない。
写真の大栗川は、しっかりと護岸工事がされており、今年の台風でも大丈夫であった。多摩ニュータウンが開発される前は、この大栗川も蛇行し、あふれることもしょっちゅうだったそうだ。それがこのようになり、水の被害はなくなりつつあるが、これによるさまざまな生き物の影響はどうなのだろうか?もちろん、豊富だと私は感じているが、以前を知らないので比較もできない。
今月も勉強会で行く神奈川県の腰越も腰越川の河口の工事のあと、水鳥が激減してしまった。もう3-4年になるが、いまだにその景色は寂しい。水害とか直接の不便を強いられる住民の方を想うと、非難する気はないのだが、地球上に住む動植物にとっていかがなものだろうか考え込んでしまう。所詮私たち人間も他の生物と同じで土に戻る存在だ。
さて、川でなく自分の人生はどう流れているのか、ちょっとまとめてみたい。最近は縄文小説など書いたりし、自分の人生の流れが写真のように大きな分かれ道に来たのかなとふと感じたりしたことも正直あった(笑)。自分の人生が変わるとき、本来の自分の傾向と渇望の方向、それから心の防衛機制からくる短期的な方向の二つがあるように思う。生きる上で、どちらも重要だが、悔いのない人生を送るためには、この二つを明確に意識できれば良いように思う。
縄文小説に取り組んだのは、おそらくこの世の中の技術革新による本を出版するコストが激減(オンディマンド印刷、電子書籍)したことが背景にあるのだろう。気が付いている人は少ないかもしれないが、もうだれでもIT技術をある程度知っていれば小説家として赤字なく出版できる時代になってしまっている。そんなことが背景にある。自費出版も数百万円をつぎ込むこともできるが、5-6万円あれば一応出版できるという現実もある。
私にとって、U先生の生き甲斐の心理学を普及させる仕事、あるいは等価変換創造理論など若いころからの学びを深めることは自分の傾向と渇望にこたえるものだと思う。小説家となって金儲け(笑)するのは多分妄想なのでしょう(笑)。ゆったりと流れる川に護岸工事をするのはいかがなものだろうか。
自分はどこへ流れていきたいか 10/10