田舎暮らし山裾の日々

信州に移り住み16年 山裾になじむ今日この頃 ECOな生活“循環型社会”を志し 昔と今の田舎の生き方を愉しむ

小字名は土地の屋号だ

2008年11月01日 | 日記
11月1日(土) 早朝 小雨 後 快晴 風は冷たいが 陽射しは暖かい

8時50分公民館集合、立科町公民館 生涯学習講座 が開かれた。
『すずらん学級』と「町の花」を冠に着けた学習会、『歴史の道ふるさと再発見』を課題にしている。
今日のテーマは《地名を訪ねて》として、町内の小字名が今では使われなくなったものを再確認しようということだ。


開講の挨拶もそこそこに町のバスに乗り込むが補助席も全て使った満席の状況だった。
申込者が多くお断りをしたと云うほどの盛況ぶりは、町内の多くの人が昔の地名を知りたがっている所以だろう。
はじめに向かったのは津金寺界隈の山部地区、古には広い境内が設けられ、本堂を遙か遠くに眺める処に仁王門が逢ったという。


現在の地名は権現運動公園となっているが小字名では柳大門だいという。
ここらはバスを降りて参道を歩き番屋川を渡って津金寺に付く。
津金寺HPhttp://www.janis.or.jp/users/tuganeji/index.html
ここで再びバスに乗り込み、北に向かい町の北部「牛鹿(うしろく)地区」へ向かう。
明治以前には牛六と書き表した文書があるが、後の「鹿鳴館」の呼び方にハイカラ感をもったのか変わっていったいう。
この牛鹿には柳澤(やなぎさわ)外倉(とくら)五輪窪(ごりんくぼ)虎御前(とらごぜん)と云う集落がある。
また、地形によっては「腰巻」「垣下」など多くの小字が残されている。


町の東部地区に移りここではバスを降りて集落内の路地を散策した。
たわわに実る柿の木も誰のものでもないと云うことでモギリその場でかじっていた。
浅間連山の見える田は集落の南にあるので「前田」と言う。


南側は「前」北側を「後ろとか裏」と呼ばれたそうだ。
これも全て田や畑の作物を中心にした考えから発しているという。
小字で「金堀」とあるが「金」は強度の粘土質で乾燥すると堅くなり「金=鉄」と表したと云われている。
また、水がないところは「無窪(なしくぼ)→梨窪」と云い「窪」は窪地で出水(涌水)のあるところを指すという。

昼には公民館に戻りそれぞれが持ってきた弁当を広げた。
午後には茂田井(もたい)地区を周った。
ここは中山道茂田井間の宿(あいのしゅく)と云い、芦田宿と望月宿の間だにある宿なので呼ばれたという。
また、間の宿というのは公の呼び方ではなく茂田井の大沢酒造故大沢洋三氏が命名したと云われている。
ここは今でも昔ながらの家並みが揃う貴重な雰囲気を醸し出している。
しかし、電線だけが景観を邪魔にしているのが惜しい。
中部電力が公共の用に為すためと云いながら利益を求める会社として景観を壊しているのには多いに反省をしてもらいたい。
茂田井中央にある馬頭観音は明治の頃には傾いていて未だに倒れることなく威厳を誇っているという。


茂田井には作り酒屋が二軒あり前出の大沢酒造と武重酒造がある。
それとこの宿場の東部では立科地籍と望月地籍が分かれている。
平成の大合併で望月・立科の両町が合併すればこのようなことは解消されたことと思うが・・・
武重酒造には深緑の杉球が吊されて新酒の仕上がりを知らせているようだ。


茂田井から古町地域を周り公民館に戻ったのは三時に近かった。
バスを降りると風の冷たさで改めて霜月を感じだ。
閉会式では今日一日の解説を担った文化財保護委員の方々に謝辞が送られ全員の拍手で感謝を表した。


三時からは『たてしな歴史研究会』の役員会を開き11月15日の“秋の中山道ウォーキング in たてしな”の参加要領を確認した。
家に戻ると西に傾いた太陽の光で浅間山の噴煙が長く南にたなびくのが見えた。

小字名は地形を表した屋号のようだ
コメント (6)
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