物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

これが物理学だ

2014-03-29 11:26:32 | インポート

ルーウィン著「これが物理学だ」(文芸春秋社)を先日購入したが、なかなか読む暇がない。

これは昨日再放送が終わった、NHK E テレのMIT白熱教室のルーウィンさんの書いた本である。

もっともこの本は字が大部分で式とか図があまりなく(写真が中途に入っているが)、あまり読みやすい書ではない。

私のようにテレビの放送を見て興味を抱いた人には多分退屈であるだろう。

もっとも中身を読めば、結構おもしろそうではあるが、それでも放送で示されたデモ実験の迫力には到底及ばない。

だから、一般の人が買って読むことは勧められない。もっとも物理学に関心をおもちならば、購入することもいいだろう。

もし、ネットで彼の講義が見えるならば、それを見た方がいいと思う。

縦書きであまり関心がわかない話を文章だけで綴られては物理学の方が逃げて行くような気がする。

そんな悪口を言いたくもなるような本である。しかし、すこし中身を読んでわかる人ならば、結構いけると思うかもしれない。

私はまだよく読んではいないが、補遺2

の「地球の重さを求める」は式が結構あるけれどもまあいいのではないかと考えている。

昔、入学試験問題をつくる機会があったときに、そういう問題を出してみたいと思ったことがあった。実際にそれを出題したのかどうかは覚えていない。

だから、物理学者ならそういう問題が好きなのはわからないでもない。

ルーウィンさんはX線星の研究で業績を上げた方らしい。それとかれはユダヤ系の元オランダ人であり、父親がユダヤ系であったために大戦中彼の父は数年どこかに隠れていたとかいう話が冒頭に出て来て結構おもしろそうである。

しかし、こんな本を誰が読むのだろうか。もっと図とかが豊富でなければ誰も読んではくれまい。


吉本隆明全集の発刊

2014-03-12 10:37:37 | インポート

昨日の朝日新聞によると吉本隆明全集が晶文社から38巻の予定で出版されるという。

おめでたいことであるが、私などが考えると吉本隆明氏よりも武谷三男氏の方が思想的に重要のような気がする。

しかし、吉本さんが世間から評価されているということだろう。これはなかなか理系の方は世間からの評価が難しいことによると思う。

武谷は勁草書房から『武谷三男著作集』全6巻と『武谷三男現代論集』全7巻が出版されている。他にも私がまとめた「武谷三男博士の著作目録(第4版)」(『素粒子研究』電子版)では寄稿をした短いエッセイ等も含めて231件ある。

最近、また資料集として再刊されたものもあるようなので、第5版をつくらなければならないのだが、まだつくっていない。それに中国語訳されたものもあるのだが、それはまだ手に入れてはいない。

話が文を書いているうちにそれたが、新聞記事によれば、吉本隆明全集の総経費は2億円だと見積もられている。なんとすごい費用がかかることだろうか。

これではなかなか全集など出版できないはずだ。

私だけの意見ではないが、羽仁五郎だとか全集が発行されたらいいのにと考える学者は武谷以外にもいる。

私が肩入れをしている、もう一人の学者である、数学者の遠山啓の方は『遠山 啓著作集』(注)が太郎次郎社から出版されているし、いまも多くの出版社から前著の復刻版やその他の書籍が出版されている。

ところが武谷三男の方はインターネットの古書販売である、「日本の古本屋」でも遠山に比べて半分くらいに数である。

これは何を意味するのか。日本人の物忘れの早さには驚いてしまう。

遠山は自分の活動の場として数学教育協議会をもっていたし、晩年には数教協の活動の大部分を銀林さんにまかせて、雑誌「ひと」を活躍の場とした。そこで書いた文章も多く、それに感動した多くの人がいた。

ところが武谷は雑誌『技術と人間』等への寄稿はあるものの、そういう意味での自分の発表の場をもっていなかった。そこらが遠山とはちがいである。

(注)遠山啓著作集は 数学教育シリーズ(全14巻), 教育論シリーズ(全5巻),数学論シリーズ(全8巻)からなる。


ノーマ・フィールドさん

2014-03-03 14:35:23 | インポート

3月1日の朝日新聞でノーマ・フィールドさんにインタビューをしていた。

ノーマさんは日本文学の研究者で、シカゴ大学の名誉教授であるが、東京生まれのアメリカ人である。

どういう環境の方かはあまりよくは知らないが、お父さんはアメリカ人で、お母さんは日本人だという。

だからかどうかは知らないが、現在の日本のこともよくご存じらしい。今の日本の若者の中には明日の生活のために5年先とか10年先のことを考えられなくなっている人が多いという。

そういえば、先日のNC9で1300万の非正規雇用者がいるとか言っていた。もしそうなら生活に困ってしまう若者が多いはずだ。これは別に日本だけの話ではない。お隣の国韓国でも若者に職がなかったり、非正規雇用者が増えているということである。

これは困ったことであり、明日のために民主主義の価値も何も売り渡してしまうことになる。だが、それでもその若者を責める権利が私たちにあるのだろうか。

私なども生活には裕福とは言いかねるが、それでもなんとか生活は凌げている。もっとも働いていたときの1/3の収入になっているので、高い本などは買うときにはどうしても躊躇してしまう。

できるだけ入っていた学会は会費を払うのがつらいので、いくつかを退会したし、とっていた雑誌もその数を絞っている。

そうしていてもなかなかである。だが、5%の税金から8%に消費税が上がるということで無理をしていくつか本を最近買った。だから、逆に4月以降は消費が落ち込むのはしかたがないだろう。


昨日のブログは

2014-02-19 12:03:18 | インポート

昨日のブログは単に書くのを忘れたのである。他に他意はない。

昨日は「球面線形補間」のことをインターネットで調べており、そちらの方に夢中になっていてブログを書くのを忘れた。

「球面線形補間」についてはインターネットだけでなく、すでにいくつかの書籍も見ているのだが、それは少なくとも日本語で書かれたものは少ない。私のもっている本では2冊だけである。

だが、インターネットではいくつかこれについて書いてあるものを見つけた。その説明もいろいろである。これのレビューをしたいと思っている。

「球面線形補間」というのだから、補間と関係しているとは思うが、私が今まで知っていた補間とはインターネットの補間の記事を見る限り、あまり関連付けて書いてあるものは見つけられなかった。

補間の元々の起源はコンピュータがまだ発達していない時代の関数値の補間であろう。関数の数表に出ている数値はもちろん「とびとび」であるから、その間の数値を求めたいときに補間法が使われた。

現在の高校数学で教えられているかどうかは知らないが、私などが55年以上昔には高校数学で対数関数の値を線形補間で求める方法を学んだ。三角関数でも補間は必要であったろうか。

だが、現在では関数電卓が発達していて、実際に関数の数表から補間法を用いて求めることなどなくなったと思う。

もっとも実験で得られた実験値の間の値を推定するということはいまでも必要かもしれない。このときにはスプライン補間が有効である。

スプライン関数については私の旧著『数学散歩』(国土社、2005)でそのやさしい説明を試みたが、この書は現在は品切れである。重版の予定などはまったくないので、関心のある方は図書館でこの書を探すか、google booksで読んでみてほしい。

『物理数学散歩』(国土社、2011)を編纂したときには、『数学散歩』のこの部分は入れなかった。あまりにディテールになると思ったので。


青年と若者

2014-01-13 13:01:07 | インポート

今朝の朝日新聞の天声人語で青年と若者という語について知った。

天声人語氏によれば、

明治時代に「青年」という語が生まれ、広まったという。

もっとも青年には私は女性が含まれているとのニューアンスを感じない。多分私だけではなく普通の方もそう感じられるであろう。

一方、やはり天声人語氏によれば、

戦後の高度成長期からは「若者」がさかんに使われ出したという。

この若者の方にはもはや男性だけをさすというイメージはないから言葉としても男女平等の度合いは進んで来ているのであろう。


武士の家計簿

2013-12-31 18:21:22 | インポート

「武士の家計簿」は昨年だったか映画館で妻と二人で見た。

しかし、昨夜BSでやっていたので、途中から見たのだが、なかなかおもしろかった。

堺雅人さん演じる、猪山直之が算用者として、加賀藩に仕えるのだが、見栄をはった家のやりくりで父母や祖母が大赤字を出していたところを大ナタを振るって、価値ある家財を売り、大借金の半分を返し、金貸しに残りの半分を無利息にしてくれと頼む。

そうでないとまったく返済ができないようになるから、結局はもっと損になるだろうと迫る。これがこの映画の山場である。

また、子どもの直吉(成人して成之)が5~6歳のころに犀川で拾った四文を元の場所に夜だのに返しに行けという。仲間由紀恵さん演じる、奥さんが「もし犀川で川に落ちて水死したら、どうするのですか」と直之を詰るが、それならそれはそのときの運命だと答える。これが第二の山場だろうか。

その中に直吉も成人して、加賀藩に仕官するが、幕末の風がこの加賀藩にも吹いてくる。直吉は長州藩士で、官軍の参謀の大村益次郎(村田蔵六)から誘われて官軍の算用方につく。

大村はいう。鉄砲を撃って、戦争できる輩はいくらもいるが、今の戦は物品の補給が戦の勝負けを決する。すなわち、兵隊に銃や弾薬および食糧の調達と供給ができることがこれからの戦の勝敗を決するのだと。

これは本当に大村がこういうことを言ったのかどうかはわからないが、長州藩の医師であった村田蔵六は蘭書を読んで、砲術に通じていたそうだから、そういう先見の明と大所高所から物をみることができたのかもしれない。

その後、直吉(成人して成之)は算用者として明治政府の財政を支える一端を担うことになった。

また、猪山家の入払帳(家計簿)は大正時代まで詳しくつけられていたという。

この記録を調べて、歴史学者の磯田道史氏の論文からこの映画がつくられたのだという。

また、この映画は「倍返し」という流行語を生んで、日本中に知られて、今年人気絶頂になった、半沢直樹を演じた堺雅人の演技はこの映画でもとてもよかった。


sioさんのコメント2

2013-12-20 11:04:45 | インポート

以下は「四元数と線形代数」に対するsioさんのコメントの一部を編集してここに掲載します。

全体は「四元数と線形代数」のコメントして載っています。そこを見てください。

これはですから私の意見ではなく、sioさんのお考えです。sioさんに全面的に賛成という訳ではありませんが、聞くべきご意見だとは思っています。

(以下引用)

最近の学生がユークリッドやアポロニウスの原典をろくに知らず(これらには邦訳がある)、ニュートンのプリンキピアやマクスウェルの電磁気学の原典をろくに知らないのと同様だ。

最近の数学者や物理学者たちはベクトルの起源はせいぜい四元数だということしかわからず、詳細はろくに知らないに違いない。

なんせ彼らはギリシャ語やラテン語はおろかドイツ語やフランス語すら読めない文盲が大半だから、過去がどうなっていても知る由もないし別に困らない。

19世紀以前の著作は著作権が切れているのでGoogle bookなどにも大量にあるが、数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルを取るようなエリートですら誰も読みやしないのだろう。

問題を解く能力を軽視するつもりはないが、テストで点を取るという教育だけでは、古典を読んだり問題を作るという能力は育たない。オイラー著作集やガウス全集を原文で幼少時から読んでいましたなんて奴はエリートにすらなれない狂った国だからな。

非ユークリッド幾何ですら総合幾何学的手法を捨てて微分幾何などを使ってやるご時世だから。ちょうど初等幾何や解析幾何が教育で重視されずに数式を使う代数学や解析学が発達したのと同様に幾何的な四元数はベクトル解析や線型代数に汚損され失われてしまった。

最近の学生は総合幾何学的円錐曲線論や立体解析幾何や四元数的幾何学など原典レベルで学んだことがないにちがいない。

そもそも教育に費やせる時間が有限なせいで、大学院修士までにカリキュラムが収まり切らなくなってしまったからこういう古典をじっくり学ぶということも不可能になってしまったと岡潔も嘆いていたよ。

だからといってオルタナティブスクールなどを調べても、このような科学エリートの教育はなぜかどこでも行われていないようである。科学エリートは日本では中高一貫、海外では全寮制のスパルタ教育などによってしか育たないのだろうか?

結局こういう教育やりたければ学校教育機関に行かずにホームスクールで全部自力でこの境地に到達するしかないわけだ。10歳未満で大学理学部に入るようなエリートはみんなこうしている。ただし彼らも、古典まで読んでいる者は皆無だろう。

コーシー全集やラプラス全集など、読んでいる時間がない。テレンスタオもそのような古典を全巻読破しているわけではない。教育や寿命という壁にぶつかってしまうほど数学や物理学は肥大化している。

近代数学を極めるには幼稚園ぐらいで欧州の言語数カ国語をマスターしていないと無理だろう。それで30歳ぐらいまでずーーーっとお勉強で、ようやく「近代」数学の原典をマスター。しかし20世紀のものは消化すらできない。20世紀に生み出された数学は19世紀以前までの数学をはるかに上回る。。。

初等幾何ベースの古典力学とか、四元数ベースの電磁気学の教科書とか、今更出版されないだろうからなあ。力学や電磁気学や熱力学などもモダンな数学で記述した理論は多々見られるが、こういうクラシカルな数学で記述した本はろくに出版すらされていない。

マッハやヘルムホルツなど、もはや名前すら知られていないのではないか。本来、こういうものこそ文庫や電子書籍に入れておいて数百円で入手可能にしておくべきだ。全て絶版で数千円、数万円するのでは、若者には存在を知って入手するまでのハードルが高すぎるだろう。

そもそも良い作図ソフトがないので、数式の電子化については相当技術が発達したが、二次元・三次元の簡単な図形すら電子化が難しく19世紀以前の昔の論文の復刊や邦訳とか、本文はTeX化されてても図がスキャンで酷いのが多いからな。。。

青空文庫にも、なぜかエッセイや科学哲学ばかりで科学の古典は皆無、解析学の専門書はなんと一冊もない。

だいたい、最近の科学者は英語以外の外国語が文盲なので、老人世代が生きている内に彼らに古典を翻訳させたほうが、いいだろう。昔は数カ国使えないとだめだったからな。高木貞治も英仏独語で論文を出しているし。それが今やもはや理系でロシア語など読める人材すらろくにいない。

19世紀以前の数学や物理学の専門書も、年数冊ぐらいなら邦訳が出てるから、文芸復興と称してどこかの出版社がやってくれないかな。

(引用おわり)


海外留学ができない理由

2013-12-20 10:50:33 | インポート

古代または近代数学や物理を研究する必要性を説いたsioさんの、私のブログ「四元数と線形代数」への長文のコメントがありました。

以下の文章はそれに対する私の感想と意見をコメントに対する返答として書いたものです。

ブログで取り上げた方がいいと判断したので、以下に部分的に再掲します。また再録にあたって、加筆をしました。なお、sioさんのコメントの全体についてはまた議論する別の機会をもちたいと思います。

古代や近代の数学や物理を読み解いた人(たとえばよく知っているわけではないですが、高瀬正仁さんとかまた旧知の山本義隆さんのような方)も十分に評価すべきではないかと感じています。

ただ、現在の大学や研究所の雰囲気は漏れ伺うところではそういう余裕がまったくないようです。

これがどこからきたのか、はたまた是正する方法があるのかはわかりません。

すべて国の財政的、経済的な政策である要因が大きいと感じています。このことがもう10年もすると日本の国の学術がまず疲弊し、その結果として、日本の国が経済的にも政治的にも立行かなくなる原因となるのではないかと憂慮しています。

特に科学技術の上で大きなビハインド(遅れ)となる可能性が大です。

政治家は今後30年間にノーベル賞受賞者100人を出すなどと豪語されていますが、その内情はとてもお寒くて、多くの若者は希望を持てないし、海外留学などもっての外だとか聞きます。

もし大学等から海外留学するときには、もう日本にはもう帰ってくるべき地位とか職場などないと覚悟しないと留学できないのだとか。つまり海外流出できる自信のある方しか海外留学などできない。

こういう状況では若者にいかにamibitiousたれといっても無理でしょう。それくらい日本には余裕がないのです。それを若者の冒険精神の欠如みたいに言われたのでは若者がかわいそうです。

そのことを心配をする、新聞やテレビの論説など読んだことがありません。少なくとも若者の気持ちの問題だとされている。そんなものではなくて、多分構造的にそういう気持ちを起こさせないほど状況が切迫している。

このことの実情を大学学長や理事会とかの幹部もわかってはいないということを示している。

ドイツの外国からの研究者受け入れを行っている機関フンボルト財団が9月に日本にやって来て、ドイツへの留学希望者を探したらしいのですが、そういう研究者がほとんどいないという実情にびっくりしたそうです(注)。

もっともドイツはそんなことを日本に言うと内政干渉ととられるかもしれないのでアドバイスもできないでしょう。

これは10年くらい前に比べて、研究留学の奨学金を給付している、このフンボルト財団への留学希望の日本人候補者が激減したために、フンボルト財団が日本からの研究留学者数の復活を目指した活動だったと聞きました。

(注) 実は私も約40年前にこのフンボルト財団のお蔭でドイツ留学できた一人です。


タチツテトとその類似品

2013-12-14 12:00:25 | インポート

先日医師の飯尾先生から次のようなコメントを頂いた。

(引用はじめ) 今の世はタチツテトであるといいます。

(1) タ は多様性
(2) チ は地球、つまりエコ
(3) ツ は通信、つまりネット
(4) テ はデフレ、つまり安い値段
(5) ト はコト、物はもう足りたのでイベント

だというのです。(引用おわり)

まことにそのようなまとめをされる頭のいい人が世の中にいるものだと思わされた。

どうも、このコメントほど冴えた言い分ではないが、私の知っているものをご紹介しておこう。

一番初めは学生の頃に妹から聞いた調味料の使う順序である。サシスの順序に使うと。つまり砂糖、塩または醤油、酢の順であるとか。

カウンセリングでは「ほうれんそう」が大切だと聞いた。報告、連絡、相談である。大学の新しい学部とか学科では環国人情であるとか。

これは環境、国際、人間科学、情報の学部(または学科)のことである。このことを聞いたのはもう10年以上前のことなので、今では違っているかもしれない。

こういうこととは違ったものに記憶のためのものもある。いわゆるmnemonics(発音nimanik)記憶術である。

これで一番重宝しているのはベクトル3重積のback-cab ルールである。3つのベクトルa,b,cがあり、これのベクトル積a*(b*c)=b(a・c)-c(a・b)の右辺の形から来ている(注1)(注1付加)。

これはいわゆるBerkleyの物理学シリーズの訳本(丸善)を読んで知った。もちろん、a,b,cの中でb,cがナブラという微分演算子であるときにはFeynman lecture(訳書は岩波書店発行)の注意にしたがってb(a・c)を(a・c)bとbを後ろに回して使わないといけないということはあるが。

フランス語では語尾の子音は発音しないのが普通だが、carefulに含まれた子音 c, r, f, l はよく発音されるという注意もある。

sin,cos,tanという三角関数の定義を覚えるのに「対/斜(sinの定義)の隣/斜(cosの定義)は対/隣(大車の隣車は大輪)」という覚え方もある(注2)。

ただし、このときに角に向き合った辺を対辺(高さともいう)、それから角の側の辺を隣辺(底辺ともいう)という。英語では対辺をopposite side, 隣辺はadjacent side, 斜辺はhypotenuseというらしい。

この最後の斜辺のhypotenuseというのが私にはなかなか覚えられない。

(注1) ここで*はベクトル積を表す記号の代用をしている。

(注1付加)バックーキャブ(bac-cab)ルールではなくて、中央項ルールの方が有用である。ベクトル積a*(b*c)=b(a・c)-c(a・b)では(bac-cab)ルールでいいのだが、(a*b)*cのときはそのままでは(bac-cab)ルールはつかえない。

ところが中央項ルールでは、どちらでも真ん中にあるベクトルbの前の係数は残りのベクトルのスカラー積(a・c)となる。もう一つのカッコ内にある、ベクトルaの前の係数はa以外の残りのベクトル-(b・c)であり、要するに(b・c)に負号ーをつければよい。

すなわち、(a*b)*c=(a・c)b-(b・c)aである。この中央項ルールは元のベクトル積a*(b*c)=(a・c)b-(a・b)cでも成り立っていることは各自で確かめられたい。

これは単なる記憶法だが、便利である。

(注2) 対/斜は、もちろん、sinの定義、隣/斜はcosの定義、対/隣はtanの定義である。この定義は三角関数というよりは、むしろ三角比の定義というべきであろう。


数学・物理通信3巻7号

2013-12-03 13:20:44 | インポート

数学・物理通信3巻7号をさっき発行した。

11月の半ばには発行の用意ができていたのだが、時期が来ないので大分長く待っていたが、ようやく時期が来たので発行した。

これで1巻11号、2巻6号、3巻7号まで発行されたことになる。できたら、3巻8号を年内に発行したいと考えている。

N先生とその知人と友人、他の方々に関心を持って頂いているので、結構広がりを見せ始めている。

それといつも言うことだが原稿の投稿が結構ある。現在一つの論文について難しい判断を迫られている。

一応、掲載のお断りをする可能性が強いと投稿者に急いでメールしたが、それを掲載のお断りを最終的に決めたわけではない。サーキュラーの性格をどうするかにかかわって来るので、共同編集者のNさんと協議して決めなければならない。

数学・物理通信はレフェリーという制度はとっていないので、基本的に無審査で論文の掲載がされる。そのことは変えるつもりがないが、ある程度理性に反しないことが必要であると考えている。

ところがその境は最終的には編集人に一任されている。それでそこらあたりをどう考えるのかは難しいところがある。

いままでもちょっと議論があるかと思われる原稿もなかったわけではないが、まあそれが理性に反したわけではない。編集人としてはちょっと暗黙の仮定の中に結論が含まれているという可能性があるのではないかという疑いをもったのであった。

もっともそれを明白に示すことはできなかったので、掲載の措置をとった。それに、たとえ間違えていたとしてもそれほど害があるわけではないと思ったから。


NO NUKES えひめ

2013-12-02 11:02:47 | インポート

昨日「NO NUKES えひめ」という催しに参加した。

とはいってもその一部であり、10時過ぎから12時くらいまでであった。

なかなか元気のいいスピーチが多かった。午後からは鎌田慧、広瀬隆、秋山豊寛等の著名人も参加スピーチをされたらしいが、私はこれらの人のスピーチは聞かないで帰宅した。

午後は雨となったようで、南海放送のテレビのニュースでは、参加者は傘をさしているのが写っていた。大きな傘を私は持参していたが、その傘を開くことは午前中はなかった。

木村俊雄という元東電の技術者だった方が東電が新しく提供したデータによって、原発の冷却システムが津波ではなく地震によって止まったことが明らかになったと言われていた。

木村さんはもともと東電の発表データの欠落をおかしいと言い続け、地震によって原発の冷却システムが壊れてしまっているのではないかと主張し続けてきた人である。

これは西村肇先生なども同じような主張であったと思う。だが、木村さんの名前は私は朝日新聞のシリーズ連載「プロメテウスの罠」から知った。


「展覧会の絵」

2013-11-20 13:09:04 | インポート

ムソルグスキーの「展覧会の絵」というピアノ曲を市民コンサートで昨夜聞いた。

ピアニストの高橋礼恵さんの熱演にもかかわらず私はピアノ曲を好きになれない。特にダーンダーンと力強く演奏されると単なる騒音に聞こえてしまう。

これは私の耳の方がおかしいのであって、演奏者の責任ではない。しかし、大抵の場合はそう感じてしまうから、素人の感想には演奏者は困ってしまうだろう。

ムソルグスキーが親友の画家が突然亡くなってそれを記念してつくった曲だと由来があった。展覧会での絵を見て、それに発想させられての曲である。プロムナードとよばれる部分がところどころ曲の中に繰り返し、変奏されて入っている。

この部分は大抵の人が聞き覚えがあるはずである。その曲がなんであるかは知らないにしても。

昨夜は本当はテニスもあったのだが、市民コンサートの方によりお金がかかっているからという理由でコンサートの方に出かけた。もっとも昨夜は雨がちの天候であったので、実際にテニスができたのかどうかは知らない。

そういえば、テニス(tennis)はフランス語のtenez(トュネ)から来たとかいう話を読んだ。tenezは日本語で言えば、ものをさし出しながら「ほら」とか「そら」とかいうことであろうか。

動詞でtenirという動詞があるが、その敬称2人称の活用変化である。もっともここでは命令形だが。


原発の即時廃止

2013-11-18 13:18:30 | インポート

東海原発の廃炉が先送りされたと今朝の新聞が報じていた。

要するに廃炉にしたときに出る廃棄物処分場が決まらないので、廃炉を見送らざるを得ないということだった。

それだけではない。運転をはじめて30年以上経つ原発は15基あるという。それらの廃炉にしたときの処分場はもちろん予定はない。ということはもう経済の問題ではなく、どうしようもないということである。

原発のあったところに当面そのまま置いておくしかない。これが現実である。ましてや、日本全体では54基の原発があるが、それらの対する放射性廃棄物処分場は決まっていない。

全国的に処分場の候補を公募したことがあるらしいが、公募に応じたのは高知県東洋町のみだという。その東洋町も住民の反対ですぐに撤回をした。

また、稼働が期待されていた、青森県六ヶ所村の再処理工場はトラブル続きで完成をしていない。これが完成するのかどうかも怪しい。

仮に完成をしたとしてもプルトニウムを抽出した後の廃棄物をどうするか。廃棄物処分場の目途は日本全国どこにもない。

また、仮に運よく、どこかに廃棄物処分場が決まったとしてもそこでは高レベル放射性廃棄物を短くでも2万年、長ければ20万年くらい放射線のレベルをモニターしながら、保管し続けなければならない。

こんなことを人間ができるのだろうか。素朴に考えてもそんなことは不可能だろうと想像がつく。

ましてや、原発を動かし続けるとその放射性廃棄物はどんどんと貯まっていく。どうするのか。

昔、私が応用物理学という講義で原子力工学のテキストにもとづいて大学で講義をしていたころ、放射性廃棄物は高レベル放射性廃棄物の方は高温で焼き固めてガラス状の固体としてどこかの炭鉱跡かどこかにモニターしながら、何万年も保管するというものであった。

ところが、地下深くに保管していた高レベルの放射性廃棄物が地下水を汚染してそれが地表に出てくる可能性を地学者に指摘されていた。その可能性は十分ある。

高レベル放射性廃棄物以外に低レベルの放射性廃棄物がそれこそ多量に出る。それはコンクリートで覆って日本海溝の海底に沈めるというものであった。そのアイディアは実際には実現していないと思う。

ともかく、地下100m近くの場所での余裕深度処分ができるところなど少なくとも現在全国どこにもない。

これでは原発即時廃止してもやはり大きな問題であり、政権の1つ2つが吹き飛んで済む話ではない。

無責任体制もここに極まれりである。朝日新聞がここにきて反原発に踏み切ったのには大きな理由がある。日本人の生き方をどうするのか。いま私たちは問われている。


生々流転

2013-11-14 12:03:56 | インポート

生々流転というが、なるほどそうだなと感じさせる知らせをごく最近聞いた。

何でも変化しないものはない。むしろ変化し続けないと滅びるとまでいつかテレビの番組で聞いた。この番組は東北地方を元気づけるという番組であったが、東北地方である会社か組合をやっている人が若者にそういうことを言っていた。

つねに新しい製品をつくろうと試みているとのことであった。この組合はパンも製造しているが、パンのような製品でも毎週新しい製品を出そうとパン職人たちで考えているという。

いつでも新しいことに挑戦する気持ちを持ち続けて、新しい試みを続けなければならない。そうでなければ、滅びてしまうとまでは言わなくても業績不振に陥ってしまう。

ところで新しい芽をどこから見つけるかはこれはまた難しい。先日のNHKのクローズアップ現代で取り上げていたように、日本でダメなら、外国に日本風のサービスを売り出すという方法もあるが、それもやはり一時しのぎにすぎないだろう。

だが、一時でも凌ぐためにはそういうことも必要かもしれない。だが、根本的な解決はもっと根本的に考えなくてはならないということだけは心に留めておかなくてはならない。

銭湯をベトナムや中国に売り込んだり、回転寿司チェーンを売り込んだりはある意味で成功しており、1年ほど前には東京都の給水技術のknow-howを中東の国に売り込むというようなアイディアもあった。また日本で普通に行われている健康診断の制度とそれからの健康へのアドバイス等のシステムの売り込みも行われているらしい。

給水技術でいえば、上水道施設をつくって給水を各戸にするとき、日本では3%の漏水しかないが、こういう技術のknow-howは他の国はまだ持っていないという話であった。よく覚えてはいないが、外国では30%くらいの漏水があるという話だったろうか。

どうも日本でも止めるべきである、原発をトルコに売り込む首相の気が知れない。

(注) 「せいせいるてん」と入れてちゃんと生々流転と出てきたのだが、正しくは「しょうじょうるてん」だと岩波国語辞典にあった。


Beverage

2013-11-14 11:35:53 | インポート

Beverage とは英語で「飲物」とか「飲料」を意味する。

なんでbeverage が飲物を意味するのかわからないかもしれないが、フランス語で飲むという意味はboireであり、複数2人称ではvous buvezであるから、beverageに綴りが近くなってくる。

こういう語としては自動販売機のvending machineがある。これもフランス語でvendreは売るという意味であるから、vendingが売ることと関係があるだろうと推察がつく。

もっともいま英和辞書を引いたら、英語にもvendという語がある。そして「売る」とか「売り歩く」という意味だと出ている。英語ではvendのdは発音するが、vendreの動詞活用ではje vends, tu vends, il vendと単数の1人称、2人称、3人称では人称変化するが、このdは発音しない。

Le ventとはフランス語で風を意味するが、英語でもventilation換気という意味である。それでやはり風または空気の流通と関係があるらしいことはわかる。

この場合も英語にはventilateという動詞があり、「換気する」という意味があった。

もっともこんなことはフランス語をちょっと学んだりした後の後知恵であり、現在英語を学んでいる、高校生にこんなことを言ってもしかたがないか。