物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

構想が必要なのはどこでも

2006-06-01 02:39:41 | 社会・経済

この間二男のtetsuroの話を聞いていて、構想が必要なのは学問とか教育とかばかりではないなと思った。彼はある会社のサーバーの管理をしている。いわゆるSEなのだが、やはり構想が必要らしい。

というのはサーバーは世間一般からのアクセスで限度一杯に使って欲しいのだが、といってそれがパンクしてはシステムが動かなくなる。サーバーの容量を上げればいいのだが、利益がまだ十分上がると保障されていない段階ではサーバーの容量を上げて、会社の支出を上げるのは憚られる。

ということでストレスを抱えている。どういうふうにその辺の移行をスムースにするかという点が腕の見せ所だと思っている。しかし、それを同僚に話して問題意識を共有するところまでは行っていないという。

それを聞いてわが子自慢で申し訳ないが、そこまで二男が成長しているかと驚いたと同時に知恵というものをもっていることに感心した。知恵は誰かからの教育で身につけられるものではない。自分のものである。

知識は教育で身につくかもしれないが、知恵はその人の持って生まれたものである。私はいつも知恵とか叡智とか言うものに尊敬の念を抱いている。

話が突然変わるが、量子力学の創始者の一人Bornが後年語ったところによるとゲッチンゲン大学の彼のところで学んだ人たちの中からオッペンハイマーを中心とした原爆をつくった一群の原子物理学者たちが現れたが、彼等は確かにcleverではあったが、自分はもう少し彼等がwiseであって欲しかったと。

この話は私は湯川さんの講演録を読んで知ったのだが、(私が25,6歳であったろうか)その頃から知恵とかwisdomとか賢さというものに敬意を払うようになった。もちろん、知識もないよりはあったほうがいいが、そういうものにはあまり重きを置かなくなったように思う。


構想が大事だ

2006-06-01 01:57:09 | 受験・学校

いくつかの授業を非常勤講師として行っている。いままで何を話すかということについてあまり考えたことがなかった。これは工学部の量子力学の講義を30年以上やっているとそういうことはすでに出来上がってしまっていたからだ。

ところが、同じ量子力学でも理学部ではちょっとちがってくる。そうすると何を話すかという構想が重要になってくる。それが決まれば、ノートを作る事だってそんなに苦にはならない。かなり時間をとっているのはやはり構想を立てるところだ。この構想を立てる段階では居眠りしたり、ぼんやりとしていたり、音楽を聞いていたりして怠け者のようである。

基礎物理学の講義でもそうだ。何を教えるかということは何を教えないかということかもしれないが、それを選ぶのにやはり時間がかかっている。それが決まれば、後は単に労力の問題である。いやまだ少しは知的作業が残ってはいるが、それでもその段階まで行くと気はもう重くはない。ある種の晴れ晴れとした気分で準備ができる。

これは別に講義に限ったことではない。数学エッセイーを書くにしてもそのほかのジャンルのエッセイを書くにしても同じである。そのための要件は何なのだろうか。常に問題意識を持っていることだと思うがちがうだろうか。

この問題意識をもつということだが、それはどこから来るのか。人間としてまっとうに生きるということから来ているのではないだろうか。それはなんでもよい。若い人なら恋の成就のためでもよい。ただし、自分勝手な利己的な考えではいけないであろう。自己向上のために何をなすべきか。これは他人から見たときの自分の魅力を示せるかどうか。

いま私は具体的には対数と指数について考えている。そのエッセイを書き始めたところだが、まだ終わりまで見通せてはいない。さてこれについての構想はどう発展していくのだろうか。