この間二男のtetsuroの話を聞いていて、構想が必要なのは学問とか教育とかばかりではないなと思った。彼はある会社のサーバーの管理をしている。いわゆるSEなのだが、やはり構想が必要らしい。
というのはサーバーは世間一般からのアクセスで限度一杯に使って欲しいのだが、といってそれがパンクしてはシステムが動かなくなる。サーバーの容量を上げればいいのだが、利益がまだ十分上がると保障されていない段階ではサーバーの容量を上げて、会社の支出を上げるのは憚られる。
ということでストレスを抱えている。どういうふうにその辺の移行をスムースにするかという点が腕の見せ所だと思っている。しかし、それを同僚に話して問題意識を共有するところまでは行っていないという。
それを聞いてわが子自慢で申し訳ないが、そこまで二男が成長しているかと驚いたと同時に知恵というものをもっていることに感心した。知恵は誰かからの教育で身につけられるものではない。自分のものである。
知識は教育で身につくかもしれないが、知恵はその人の持って生まれたものである。私はいつも知恵とか叡智とか言うものに尊敬の念を抱いている。
話が突然変わるが、量子力学の創始者の一人Bornが後年語ったところによるとゲッチンゲン大学の彼のところで学んだ人たちの中からオッペンハイマーを中心とした原爆をつくった一群の原子物理学者たちが現れたが、彼等は確かにcleverではあったが、自分はもう少し彼等がwiseであって欲しかったと。
この話は私は湯川さんの講演録を読んで知ったのだが、(私が25,6歳であったろうか)その頃から知恵とかwisdomとか賢さというものに敬意を払うようになった。もちろん、知識もないよりはあったほうがいいが、そういうものにはあまり重きを置かなくなったように思う。