昔、私の若い頃1回だけ大森荘蔵氏にあったことがある。ある「科学と哲学の会」の席であった。
大森さんの話は『コップを私たちは全体を見ることができないので、もののを認識するのに知識が不十分というのかものそのものを正しく認識できないのだ』といういうような話だったと思う。
確かにある角度からコップを見れば、その裏まで見ることはできない。しかし、その裏のところに鏡をおいてその像を見ることにすれば、コップの裏側を見ることができるではないかと思った。
コップの底にしても同じである。その下の鏡をおけば、見ることができる。多分大森さんならこう反論されるであろう。確かに鏡の像によってコップの裏側も下も見ることができるだが、それはコップそれ自身ではない。
だが、先日述べたように物が見えるというのはその物体から反射された光を見ているのだ。物理の法則で光の反射と屈折は同じ光の性質として同等の立場で成り立っている。
鏡で見た像がコップそのものの認識にならないという主張は逆に物が見えるということに対する主張を危うくする。だから、私はそういう主張はまやかしだと思うのである。
これは人によくわかるようにたとえて言ったものだったのかも知れない。しかし、論があまりにも雑にできすぎている。
大森さんは東大の物理学科の卒業生だそうである。戦争中であまり勉強はしなかったかもしれないが、それでもそういうことは考えが及ばなかったとは思いがたい。
そういうことをご存知の上で上に言ったような主張をされたのだと思う。これはしかし頂きかねるというのが私の意見である。
実際に何を主張されたかったのは哲学に暗い私にはいまもわからない。ただ、そのときにそういう反論がすぐにできればよかったのだろうが、その場での大森さんの主張をおかしいと思って考えて後で思いついたことなので、後知恵である。
その後、大森さんは分析哲学の大家になられて、その後に亡くなられた。しかし、これが大森さんをめぐる私の思い出の一つである。
ガッコの先生に、「お前は、自分中心で世界が周っていると思っているだろ」
などと厭味を言われたことがあるが、
『自分中心も何も、世界を観測している生物の数だけ、世界は存在するんだ』
と心の中でシカトしてやった事がある。
例えば、音楽と無縁な(僕の様な)人が、「ベース」や「トロンボーン」などと言われて観察しても、(自称;)理科系の僕からは、他の{弦楽器}や{管楽器}と同じじゃないか?
しかし、音楽嗜む人達にとってバンドを組む際、「ベース」「ギター」「キーボード」「ドラム」担当のメンバーくらいは、演奏する際揃えたいらしい。
極論からすれば、猫にとって「コップ」は何か解らないし、「コップ」を作った人には作品である。
少なくとも量産ではない「コップ」を、物性から力学、光学、芸術性まで考察し認識するならば、一生係るかも知れない?
「一つの対象を、時空のあらゆる視点から認識するには、無限に近いものがあるかもしれない」ということかな?
コメント有難うございます。お互い何を自分で言おうとしているのか自分でもはっきりしないかもわかりませんが、それでいいのだと思います。
他人を理解することはそれくらい難しいということです。