日も落ちた豊橋市内線に乗っていると、何やら豊橋市電らしからぬ感覚。
よく見ると先年度まで岐阜市内線を走っていた車輌であった。
乗客も「新しい電車ー」の声がよく聞かれた。
姿の無くなった電車が、身近なこの地で生き続けている…。
(写真は、夜の延伸区間を走る780形)
よく見ると先年度まで岐阜市内線を走っていた車輌であった。
乗客も「新しい電車ー」の声がよく聞かれた。
姿の無くなった電車が、身近なこの地で生き続けている…。
(写真は、夜の延伸区間を走る780形)
(今橋城 愛知県豊橋市)
昭和29年の豊橋産業文化大博覧会に際し、復興された吉田城本丸隅櫓の「鉄(くろがね)櫓」
昭和46年を最後に、今まで何故公開しなかったのか?と思う、築城500年記念の期日限定公開がされていた。
この時期、週一回の二時間だけの特に限られたスケジュール。
当時の展示物があるわけではないが、開いているという珍しさだけが先に立った。
美術博物館の分館にすれば良いのでは?観光として更に力を注いでみては?等、係りの人に問いかけてはみたが。
…然し今のままが静かで良いのかもしれないが…。
天守を持たなかった本丸を見下ろす秋の眺め、ほの山とほの川、そして「金色島」と呼ばれる中洲が見渡せた。
吉田城は永正二年(1506)に築城された、今橋城に始まる。
翌年には城主、牧野古白が討死し、今川氏下の戸田氏、離散した牧野氏らが入城し、牧野信成の代の大永二年(1522)に吉田城と改められた。
享禄二年(1529)には松平清康が攻め、松平氏のものとなったが、天文四年(1535)には再び戸田氏のものとなった。
永禄五年(1562)には松平清康によって攻められ、臣酒井忠次が城代となった。
天正十八年(1590)からは、十五万二千石で池田輝政が入り、城下町の改良を行ったが、慶長六年(1601)輝政が播磨姫路移封後は、松平氏による譜代大名となって廃藩を迎えた。
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