私がこの地名を知ったのは、1982年頃。太郎丸古墳が存在することを知ったときである。それから20年以上の年月が流れ、ようやく訪れることができた。
岐北のこの地域は山県市や関市にほど近く、早くから住宅団地として開かれたようである。
点在する民家、地区を見守る鎮守、年季を感じるあらゆるもの…昭和時代そのものの面持ちがある。先に行われた万博時代頃の構築物が今となっては時の流れのメモリとして感じられた。
太郎丸から山県岩という所へ抜ける「峠」には小丘上に太郎丸古墳がある。円墳であるが埴輪を有し、地域有力者の墓であったであろうと想像する。今は雑木に埋もれ、静かに眠っている。この辺りの時代の速度に伴うが如く…。
鉄筋コンクリート製の簡易陣地のことを、軍事用語でトーチカという。
ロシア語で「点」という意味を表している。四角形や半円状の構造を成しており、中から攻撃できるよう小さい窓を設けている。
「向山トーチカ」は、明治42年(1909)陸軍第十五師団工兵第十五大隊が豊橋向山に創設され、その後このトーチカも構築された。終戦と共に、戦いの痕跡となったが、昭和42年(1967)「豊橋工兵隊の跡」の碑としてトーチカ跡の上に建てられ、戦時中を振り返る碑文と共に、高台の向山緑地内で過去の痕跡を今に伝えている。
HP版: http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/mukaiyama-tortica.htm
と言われた。
当然違うので「違いますよ」と言った。
「あまりに似ていたので…」
然し、実は以前、全く違う場所で、見ず知らずの人に「旧姓ナカムラさんですよねぇ」と言われたことを思い出した。
「旧姓」というのも印象的だが、ナカムラという名前には何があるのだろう。
母の旧姓は確かにナカムラだが…。
何処かの世界で、私に瓜二つの「ナカムラ君」が生きているのは、間違いないようである。
昭和橋という橋が架かる。
実は、同姓親戚が会社をしている所でもある。
何やら、不景気そうな雰囲気が漂っていたが、それなりに営んでいるのだろう。
この辺りは、運河沿いの小工業、海運業地帯。
よって商店も少ない。
親戚も居宅は山の手に建てたようだった。
(長野県大町市大町)
北アルプスの麓、豊川稲荷神社境内の小さな公園に、この滑り台は存在する。コンクリート剥き出しの、手触りザラザラ滑り台は、まるでサンドペーパーのようである。新しかった頃は滑れたのか?と思ったりする。または、何か表面にコーティングしてあったのだろうか。もっとも、雪が積もると必然的に滑るが…。
それにより、耐震強度の基準値より低いビルが建てられたことになる。
要するに、偽装して得られる儲けのために行われた事件である。
先日の電気メーカーの談合、橋梁発注の談合。
今でも密やかに、且つ、確実に行われているこれらの事柄。
今この時間も苦笑いする関係者が何人もいることであろう。
写真の建物には、これらのことはないと思うが。
続編:http://blog.goo.ne.jp/kourei-flow/e/920b1ade7fc8905368197c280bf8f996
(2005年10月3日)
昭和36年(1961)2月3日、豊橋鉄道が渥美フラワーセンターとして開設した、敷地60,000㎡の植物園である。
園内には、3棟のパビリオンと芝生広場、西洋風花壇、花の散策道等があり、一年を通じて花を観ることができた。また、太平洋を望むことのできる、レストラン等も存在した。
然しながら、場所が他の観光地より離れており、手軽さがなく、来園者が最盛期の三分の一以下にまで減少、平成17年(2005)3月31日をもって閉園となった。
同年10月から同グループ会社による解体作業が始まり、咲く花と同じく、ひとときの思い出のように過去のものとなった。
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途中、全く水の流れていない区間がある。
川床に砂礫部分が多く、粘土層が深いところにあるため、増水時以外は水が浸透してしまう。
竃や七輪の木炭の受け皿として、空気道を確保する穴のあいた皿を「さな」(ロストル)という。
その原理に似ていることから、さな川と呼ぶようになったといわれている。
写真は水流が浸透し、伏流水化する境目。
(加富登麦酒 愛知県半田市榎下町 国登録有形文化財)
明治31年(1898)丸三麦酒(加富登麦酒)工場として築造された、鉄骨併用煉瓦造(一部木造)5階建、延床面積6,983m2(残存5,456m2)の建物であり、設計は横浜正金銀行本店や横浜税関倉庫等を手掛けた建築家、妻木頼黄(つまきよりなか)である。ビール醸造工場としての機能特性や湿度を調整する中空複壁や断熱耐火床(多重アーチ方式)が採用されている。 加富登麦酒は大正11年(1922)三ツ矢サイダーと合併し、日本麦酒鉱泉となり、昭和8年(1933)には大日本麦酒に吸収され、昭和16年(1941)にこの工場は閉鎖された。 昭和19年(1944)からは、中島飛行機製作所倉庫として使用されている。そして昭和20年7月15日の空襲によって機銃掃射を受け、北側には大量の弾痕がみられる。 昭和23年(1948)から食品会社の工場となったが、工場移転により平成6年半田市が取得した。
HP版: http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/marusan-beer-plant.htm
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古来、ほの川の氾濫によって中洲のようになっていたこの辺り。
川沿いの湿地を意味する“江”が地名となってできた江村の名が起こった。
もう一つ、農作物の被害を埋めるべく、鵜を飼い生計を立てていた中洲の村、鵜飼島村ができた。
この二つの村が合併され、その双方一字ずつを取って名づけられたのが江島なのである。
今もその中洲の村にあった鎮守が、安らかに辺りを見守っている。
(岐阜県不破郡垂井町 2005年1月1日)
久しく元日に初詣はしていなかったように思う。
伊吹山の麓、中山道五十七番目の宿場町でもある垂井という町を訪れた。当時の町並みは七町(約770m)で、27軒の旅籠があったという。
山は昨日の積雪が頂に残り、この地方の真冬の近さを予感させていた。
南宮大社は美濃国一宮であり、仲山金山彦神社が正式名称。金物の神様である。境内は然程広くはないものの、重要文化財に指定されている社殿が残されている。
町は静かな佇まいをみせているが、宿場町であったため本陣跡や当時の活気の名残が僅かに残されていた。また伊吹山系からの伏流水による、地名の由来ともなった「垂井泉」がこの辺りの清浄感を高め、私自身の今年の新たな心持ちを創りだしたようであった。
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1950年、戦痕間もない頃に開店した百貨店である。
1971年、西武百貨店が丸物百貨店に対し資本参加、業務提携等が行われた際に増床を行い、地上9階の新館が建造され、21280㎡の店舗面積となった。その後、市街地空洞化により客足が減少、不採算店となり、旧館(本館)の耐震工事が予算的に施工不能となった。更には母体グループの合理化と相俟って2003年8月をもって閉店となった。そして翌年全て解体されたのである。
立地条件からすれば、この地域に欠けている同グループ系列の若者向け商業店舗や雑貨店舗等及び、アミューズメント施設との複合再生を実施する価値もあったのではないかと思われたが…。
現在も跡地の有効的な再利用は不透明なままである。
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