flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

早回りの季節

2005-12-19 12:00:02 | kourei-ki-日記-
 この時期としては異例の寒気が南下している。
昨日は私の住んでいる辺り、雪は一時チラついたものの、良い天気であった。
昨夜から弱い雪が降り始め、今朝は薄っすら雪化粧となっていた。

ここのところ、何気に食事制限をしている。
朝食にウェイトを置き、昼食、夕食と段々量を減らす食事。
そして野菜を中心とし、タンパク質はビタミンの豊富な豚肉、そして魚類。
もともと間食はしないが、パンやお菓子等の甘味代わりに果物。
飲み物も糖類をできる限り控えたもの、コーヒー、お茶を多く飲む。

私はいわゆる、食いっぱぐれのないタイプ。
どんな状況になっても、どこからか常に食料が得られ、また性格上残せないタイプであるため食べ過ぎてしまう傾向にある。
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土々川

2005-12-18 22:00:04 | 水のほとり
(愛知県宝飯郡一宮町~豊川市)
 本宮山の連峰から流れ出す小さな川、土々川(どどがわ)ドンドウ川とも呼ばれる。
ドドは「とどろく」「とどめく」と同意味であり、一般的には水が流れ落ちる音の意。
近隣の岡崎市の百々町(どうど)、新城市の道目記(どうめき・どどめき)も同じ由来により名付けられたと思われる。
 古代条理制の時代、土々川は農業・用・排水路的な性格が強かったと考えられる。そのため、各所に堰(せき)が設けられていた。
 昭和33年(1958)の圃場整備までは、今より川幅が狭くさらに曲がりくねっていたため、出水の際はかなりの水流があったことが推測される。堰を落ちる水音が小さな川に似合わず、凄まじかったので、どんどう・どど と呼ばれるようになったのだろう。

■ 前の川
 旧西原村(一宮町西原)での呼び名。西原村からみて前方に流れる川であるため。
■ 木戸西川
 旧大木村(一宮町大木)での呼び名。大木木戸地区の西側を流れる川であるため。
木戸は、川の東側に位置した篠田村屋敷跡の遺構地名。

【帯川データ…(1)三次河川 (2)合流先…帯川 (3)河川種別…普通河川 (4)水源所在地…一宮町大木字小牧 (5)河口所在地…豊川市樽井町(注・昭和24年までは、現豊川市佐土町で佐奈川に合流していた。「佐土」とは、佐奈川の「佐」と土々川の「土」を組み合わせてできた地名である)】
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おぶさの風

2005-12-17 00:01:35 | 漂い紀行
 長良川と岐阜市最高峰百々ヶ峰に挟まれた雄総の地。
北風を遮り、川にほど近いこの地は、原始の時代からの良好な営みの場所であったであろうことが伺える。
辺りの人たちが、空気の流れが違うところという。
実際に風に触れてみると、明らかに流れが違うのが分かる。
ザーザー流れる風が、この辺りに差し掛かると、緩やかとなり、ゆっくり回転しているようなのである。
山と堤防に囲まれた地形も作用していると思われるが、その安心感のある山並み、包まれるような視覚も、これら好条件に加味されるに違いない。
(2005/10/14)
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金生山

2005-12-16 22:05:45 | 漂い紀行

 西濃地区の産業、石灰と大理石を産出する山である。
身近なところでは、食品等に同封されている乾燥剤の石灰がある。
濃飛八景と呼ばれたこともあり、採掘により次第に形を縮小させながらも、標高200mからの眺望は、養老山系、濃尾平野を見渡せる。
石灰層の一部に、古生代のフズリナ、ウミユリ、サンゴ等の化石が包含されていて、山上にある化石館に展示されている。
金生山南斜面には“股ぎ石”がある子安神社が鎮座する。女性が跨ると子宝に恵まれるという。
また北方には“こくぞうさん”と呼ばれる真言宗の明星輪寺がある。仁王門には県重文の金剛力士像があり、本尊虚空蔵菩薩を安置する。

今でもこの山からの鉱物は、貨車によって各地へ運ばれている。
 (2005/09/13)
 「股ぎ石」
    赤坂町界隈

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黄柳橋

2005-12-15 12:38:13 | STRUCTURE-構造物残影-
(別所街道 愛知県新城市乗本 国登録有形文化財)
 大正7年(1918)豊川水系宇連川支流黄柳川(つげがわ)に架設された、長さ51mのオープンスパンドレルアーチ方式の橋である。昭和2年(1927)東京に橋長32mの神田川聖橋(千代田区神田駿河台)が架橋されるまで、この方式の橋としては黄柳橋が日本一であった。平成10年(1998)県道拡幅に伴い隣に新橋が築造され現役を退いたが、文化財に指定され、保存されることとなった。

(※スパンドレル…橋面とアーチ部材との間の部分)
(※オープンスパンドレルアーチ…スパンドレル部分に柱を設けるなどして空間を設けたアーチ)
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喚問の圧力

2005-12-14 21:16:29 | 天祐語録
“圧力”によって成り立っていると言っても過言ではない世の中。
その圧力によって社会が進化したとも言えるが、陰の世界を生み出す根元になったとも言える。
その圧力もまた、今旬の話題にもキーポイントとして登場している。
太古から権力という圧力によって形成されてきた人間社会。
そして半善半悪でしか世を渡り歩けない実情。
私も幾つかの組織の真ん中を通り抜けてきたが、その圧力によって押し出された一人でもある。
「本人を鍛えるため」という口実。
「オトナ社会の現実を知りなさい」「良いことばかりでは会社は生き残れない」
…等という私に対し聞かされてきた吐言集。
組織がある限り、このような圧力の使われ方が消えることはない。
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みたらいの石仏

2005-12-14 12:47:50 | 石のまもり

 甲州から信州入りをする。
3年振りの下諏訪駅を降りた。
原始の石器材料黒耀石の産地、和田峠へと向かおうと考えていたが、バスが廃止されてしまっていた。 
そこで先ず諏訪秋宮に参詣することとした。そしてその後ろに連なる諸神仏にも訪れた。
明治時代に祀られた大岩不動や町内最古の双体道祖神、霊神等があり、鎌倉街道ロマンと言われている。
また春宮近くにある、みたらいの石仏は、春宮の石鳥居を造る際、切り出そうとした石から血が流れ始めたため、その石で仏を造って供養し、改めて石鳥居を造ったところ無事完成し、奉納できたという伝説が残っている。
石仏の表情を見ていると、時代や国を超越したものを感じ、この辺りの独特な神秘さを漂わせているようだった。

これら魅力的な信仰物が多かったため時間が押し、付近に訪れた際に必ず寄る温泉にも入浴できなかったが、同様のリラックスを得られたと感じている。
      

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甲府城

2005-12-14 00:01:00 | 城郭・城下町

(舞鶴城 山梨県甲府市 県指定史跡 2005年9月9日訪)
 石和から、中央東線を下る。
甲府駅で乗り換えの合間、駅前の舞鶴城公園に向かった。
 甲府城は元々、武田氏が居城した躑躅ヶ館跡を天正十年(1583)徳川氏臣平岩親吉が引き継ぎ、そこで政務が行われたが、翌年から徳川家康が南方に新たな城、甲府城を築かせ、初代城代として平岩親吉を置いた。
慶長八年(1603)の徳川義直を始めとして、忠長、綱重、綱豊が入ったが、各氏の合間には城代が置かれた。
宝永元年(1704)武蔵川越から柳沢吉保が入り、享保九年(1724)その子吉里のとき、大和郡山へ転封、天領となった。
 現在は稲荷櫓が再現されているが、城下町の印象は薄く感じた。
それは、開城当時の絵図や古文書が殆ど残っていない状態にあり、印象付ける手段が乏しいのも要因であろうか。

 この後は、下諏訪へ向かった。

(関連記事:
積翠寺 要害山城 睦沢学校 武田氏館跡発掘調査 旧睦沢学校 平成二十六年

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富士河口湖

2005-12-13 12:26:21 | 水のほとり

(山梨県南都留郡富士河口湖町 2005年9月9日)
 時間当たりの移動容積の少ない東海会社線の御殿場線に乗る。当初、東海道線として造られたため、今は単線ながらも複線の跡が残る。因って歴史も古いが、施設も古い。 そして、ようやく御殿場着。バスに乗り換える。
辺りは急速に雲に覆われてきた。まるで私の心境の様にフジヤマも姿を隠す。次第に標高を上げ始め、気温は下り始めた。直前まで宿泊する予定だった山中湖畔を通り過ぎ、忍野を過ぎる。途中、閑散とした場所と思いきや、街場の様々なチェーン店が軒を連ね、私が住んでいる所より街であった。フジヤマコースターの横を通り、凹地に到着。束の間、フジヤマが姿を現し、見晴らしの良い所まで向かおうとしたところ、また姿をくらました。そこから宿泊先迄が思ったより遠く、真っ暗闇となった。

 河口湖大橋を渡り、湖畔のトンネルを抜けてようやく宿に着いた。宿は開業4年目。盛況であったが、宿泊客は殆んどアジア系外国人。この宿の特色であろうか。



 温泉を持ち、湖面を見下ろす様になっている。

 



 眺望最高段階宿の朝、雨雲が立ち込めていた。気温は16℃。河口湖を後にし、御坂峠を越えて石和に向かった。



(関連記事:河口湖駅

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light up etc. 3

2005-12-12 21:52:11 | illuminated
 繁華街のイルミネーションはもう当然の光景。
然し、近頃の住宅街も「観・光」地化している?今日この頃である。
 最初のイルミは岐阜玉宮町。その他は3軒それぞれ個人の住宅である。
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国府津海岸

2005-12-12 00:24:32 | 海道・みなと

(神奈川県小田原市)
 伊東を出発、御殿場方面へは沼津回りではなく小田原回りで向かってみる。
国府津で列車乗り換えであるが、御殿場線の本数が少なく、駅を降り海岸に行ってみた。
高架道路が砂浜の上を通り、由比や親不知の様である。そして伊豆半島もよく見えた。

 ここは湘南、波はいい。


(関連記事:相州小田原 小田原城 箱根登山ベルジュ

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スパイダーゴリラ

2005-12-11 00:00:02 | まちの違和感
阿波踊りの里に現れた、謎の不動物体。
南海地震の際心配である。
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伊東

2005-12-10 00:33:00 | 漂い紀行

(静岡県伊東市 2005年9月8日)
 伊東には共同湯等があり、熱海より庶民的という感じである。
彫刻モニュメントを多く見かけ、文化面も大切にしているのであろう。
市庁舎は海岸を見下ろす物見が丘に建てられており、最上階は展望食堂となっていた。また、昭和三年に建てられた旧旅館、東海館も残されている等、戦前からの情緒を残している。
 

(関連記事:伊東湯川

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金儲けは幻想

2005-12-09 18:09:48 | 天祐語録
 営利を何よりも第一目的とした組織は、大なり小なり非常識さを持っているものである。
某建築設計確認調査会社の株主が、大手有名住宅会社数社であったりするご時世。
安い元手で、一早く稼いでやろうとする者には、取り返しのつかないリスクが伴うことであろう。

信頼は、そんなに簡単に築けるものではない。
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「平尾高原」

2005-12-09 00:01:41 | ご近所漫ろ歩き
…と呼びながら、実は近隣の単にチョッと高台の町、平尾町。
私の語呂呼び名である。
前項のマイクロガードレールサンタサン家に程近い。
この町の隣りにも「萩高地」というのがある。
これも、その場所の風貌から私が呼んでいる名前に過ぎない、大字萩。
何やら無理矢理信州っぽくしている、こじつけ好きの私である。

(写真は、日没後の鎮守さん界隈)
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