(岐阜県多治見市 県指定史跡)
鎌倉時代末、この地に館を構えていた土岐氏族多治見国長は、正中元年(1324)鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇側の計画に参画していた。
然し、同じく参画していた同族土岐頼員が、幕府側である六波羅探題奉行、斎藤利行の娘である妻に漏らしたため幕府側に知られ、計画に参画していた者は攻められた。(正中の変)
国長はその際、この館で自害したという。
明治13年(1880)明治天皇巡幸の際、館の門のあったとされる現在の多治見新町の一角に祠をつくり、国長の遺跡として整備された。
(関連記事:下街道多治見)
鎌倉時代末、この地に館を構えていた土岐氏族多治見国長は、正中元年(1324)鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇側の計画に参画していた。
然し、同じく参画していた同族土岐頼員が、幕府側である六波羅探題奉行、斎藤利行の娘である妻に漏らしたため幕府側に知られ、計画に参画していた者は攻められた。(正中の変)
国長はその際、この館で自害したという。
明治13年(1880)明治天皇巡幸の際、館の門のあったとされる現在の多治見新町の一角に祠をつくり、国長の遺跡として整備された。
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