(愛知県新城市八名井)
標高382mの吉祥山北斜面に位置する八名井地区。
豊川、宇利川左岸のこの集落は、水が豊富なところでもある。故に縄文時代からの人々の営みがあった。然し伝説では、水の少なかったところとされている。
この村に通りかかった弘法大師が、錫杖で八ヶ所の地面を突いたところ、水がこんこんと湧き始めたという。それは亀井戸、男(大)井戸、女(小)井戸、柳井戸、桜井戸、稚児井戸、藤井戸、岩井戸の八つ井戸で、地名の由来といわれている。
(三河三水:今水、鑓水(豊川市大木町)、吉水(新城市稲木))
その藤井戸、岩井戸、稚児井戸の湧き出た吉祥山中腹に、谷を挟んで東側八坊、西側四坊の十二坊(安養坊、池之坊、岩本坊、円寿坊、木之本坊、地蔵坊、杉本坊、泉龍院、滝本坊、等覚坊、不動坊、山本坊)を配した真言宗吉祥山今水寺が建てられた。そして山頂には吉祥天が祀られ、吉祥山の名の由来となったとされている。
私が寺跡に最初に訪れたのは昭和58年。麓に住む私と同名の方に案内していただき、この寺跡を巡った。あれから24年が経過した。
途中の林道は、その後完成した水道タンクまでの区間が舗装されていたが、それ以上は変わらない光景であった。
平安時代に隆盛を極めた今水寺であったが次第に衰退し、円寿坊だけになったという。そして元亀四年(1573)野田の戦いの際、武田勢がこの今水寺に陣を構えようとしたが、拒否されたことにより火を放たれ、僧侶も殺害されたという。このとき、今水寺は過去のものとなった。
その後、文政十一年(1828)に一時「延寿庵」として再興したが、明治6年(1873)に廃寺となっている。
今水寺本堂のあった南側には当時から祀られていた守護神の熊野三社が現在も建ち、本堂の北西側に鐘楼、そして墓地が存在した。本尊十一面観音は、麓の集落に建つ「阿弥陀堂」に移され、今も住民によって守られている。
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