(岐阜県海津市)
最初に立ち寄った歴史民俗資料館では、「高須御館」という高須藩の邸宅の一部を再現したものが、施設最高部に設けられている。
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高須藩は元々、豊臣秀吉臣高木盛兼が居城する高須城から始まり、関ケ原以後は徳永寿昌(ながまさ)が凡そ五万石で入城した。また、寿昌は、養老郡の養老寺を再興しているが、寛永五年(1628)子の昌重のとき、藩を改易となっている。
寛永十七年(1640)には下総関宿から小笠原貞信が入ったが、元禄四年(1691)越前勝山に転封となっている。
暫く笠松代官預かりとなっていたが、元禄十三年(1700)尾張藩二代徳川光友の二男松平義行が、三万石で知行を行うことになり、高須松平家が成立した。義行の子は六人いたが、五人は早世となり、四男武雅も上野館林越智松平家の養嗣子となったため、尾張藩三代綱誠の十五男をもって養嗣子とした。その後、廃藩になる十三代義勇(よしたけ)まで続き、各代の子は各地の親藩の養嗣子を輩出した。
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町並みに往時の面影を所々残しながらも、城跡は住宅地、高校、公園等になり面影を殆ど残していない。徳永寿昌の家老稲葉主水(もんど)が居住していた傍にあった、西大江川に架かる橋を「主水橋」と呼び、今は材質を変えながらも同じ場所に架かっている。また、松平義行が宝永二年(1705)鋳造させ、城下瑞応院に置いた「時の鐘」が、その後嘉永三年(1850)十代松平義建のとき高須別院を建て、同寺の梵鐘として移され今に伝わっている。
最初に立ち寄った歴史民俗資料館では、「高須御館」という高須藩の邸宅の一部を再現したものが、施設最高部に設けられている。
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高須藩は元々、豊臣秀吉臣高木盛兼が居城する高須城から始まり、関ケ原以後は徳永寿昌(ながまさ)が凡そ五万石で入城した。また、寿昌は、養老郡の養老寺を再興しているが、寛永五年(1628)子の昌重のとき、藩を改易となっている。
寛永十七年(1640)には下総関宿から小笠原貞信が入ったが、元禄四年(1691)越前勝山に転封となっている。
暫く笠松代官預かりとなっていたが、元禄十三年(1700)尾張藩二代徳川光友の二男松平義行が、三万石で知行を行うことになり、高須松平家が成立した。義行の子は六人いたが、五人は早世となり、四男武雅も上野館林越智松平家の養嗣子となったため、尾張藩三代綱誠の十五男をもって養嗣子とした。その後、廃藩になる十三代義勇(よしたけ)まで続き、各代の子は各地の親藩の養嗣子を輩出した。
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町並みに往時の面影を所々残しながらも、城跡は住宅地、高校、公園等になり面影を殆ど残していない。徳永寿昌の家老稲葉主水(もんど)が居住していた傍にあった、西大江川に架かる橋を「主水橋」と呼び、今は材質を変えながらも同じ場所に架かっている。また、松平義行が宝永二年(1705)鋳造させ、城下瑞応院に置いた「時の鐘」が、その後嘉永三年(1850)十代松平義建のとき高須別院を建て、同寺の梵鐘として移され今に伝わっている。
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