(愛知県新城市市川 万灯山 市指定無形民俗文化財)
昨年は見ずじまいだった鍋づる万灯を遠望した。当初は、行われる市川集落へ出向こうと考えていたが、松明を持った集団がいるだけで特徴がなく分かり難いという地元の情報をいただき、急遽、直線で約2km離れた対岸の「有海」からに変更した。そこでは大勢の観客がいると思いきや私だけであり、時折通り過ぎる住民が数人立ち止まるだけであった。そして、とあるケーブルテレビの取材の人が訪れ、私に「どの山に上がるのですか?」と尋ねてきた。付近の住民たちも「どの山だっけねぇ」と、口々に言う有り様だったが、無理もない、年に一度、数十分間灯るだけの行事であるから。然し、よく見ると一つの山が、伐採された木々や山道が「鍋づる:囲炉裏鍋の釣り手」の形を成していた。
「鍋づる万灯」は、平安末期から鎌倉初期頃に、山伏によって伝えられた送り火の風習であるという。集落の各戸が三本ずつの松明を持って万灯山に登り、鍋づる状に並んで松明を地面に突き刺し、日没過ぎになると火を点けるものである。近年は、集落の人口減少によって松明の数が減り、他方からの応援で「鍋づる」の形を維持しているという。
間もなくして、今年の万灯も終了した。
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山田長政の出生に関しては諸説あるが、駿府説としては、天正十九年(1591)浅間神社参道馬場町にあった、紺屋(染物商)津ノ国屋山田友山と安倍郡藁科村寺尾惣大夫の娘の間に生まれたとされている。その後、沼津藩主大久保忠佐の駕籠かきとなり、慶長十七年(1612)朱印船(海外交易に使用する船)に便乗しシャム(タイ王国)に向かった。そして、日本人傭兵隊に加わり、後にアユタヤ日本人町の頭領となったといわれている。
私学校跡の向かい側には、大正14年(1925)に竣工のネオルネサンス様式を基調とした、RC造、3階建の県庁庁舎本館の玄関付近部分がある。平成8年に県庁が市内鴨池に移転した後、旧庁舎は玄関付近部分のみを曳家によって後ろへ下げられ、旧鹿児島県庁敷地は「かごしま県民交流センター」となり、平成14年に同所県政記念館として生まれ変わった。入口のトスカナ式(イタリア)双柱が特徴的である。


(奈良県天理市)
言わずと知れた宗教都市である天理は、昭和29年(1954)に市制を敷くまでは丹波市町(たんばいちちょう)と言った。私はこのまちへは、昭和54年から縁あって数十回訪れているが、私の母方の親戚もこの地で融通念仏宗の寺院をしている。そして、現在私が履修している生涯学習教育の学校も、この地が発祥である。
今回の名張、伏見、奈良、大阪、飛鳥、吉野へ向けての起点はここからであった。
天理駅を降りると、商店の衰退が以前よりやや進んでいるように感じた。夕刻の三島本通を歩くと、閉店の時間であるため、段々と灯り消されていく。通りが終わると、天理教本部神苑である。十二年振りに訪れるが、変わらず壮大であった。然し、昭和61年(1986)の教祖100年祭を前に整備された周辺道路に対し、「おやさとやかた」(一周約3500mの神域を囲む建物計画)の建設は思いのほか進んでいないように感じた。聞くところよると、若人の宗教離れの影響が大きく、金銭的に加え人的力がやや減少しているからということであった。
(教祖殿)
(東・北・西礼拝場)
また、本部の地名(三島)は、そこに三島神社があったからであるが、明治8年(1875)三島神社西側が「天理王命:てんりおうのみこと」の「ぢば:地場」として定められ、拡大するに連れ神社が取り込まれる状態となった。天理教側は教祖100年祭に向ける準備として神域にある三島神社を神域外に移転する計画をし、それを実行した。このことについて、神社関係者及び氏子等に十分な移転説明がなかったことを遺憾に思うという話を、移転当時私はよく耳にした。この三島神社は伊予大三島(愛媛県今治市)の大山祇神社の末社であるが、その大山祇神社及び祭神の大山祇命(おおやまづみのみこと)も我が家が先祖代々崇拝してきた神社であり、そして世襲神職である三島家も遠縁にあたる。何れにしても、宗教観の影響も含め、私にとって感慨深い地であることには違いない。
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その形状から、鬼の雪隠(便所)と呼ばれているが、実は古墳の横口式石郭の石室である。近隣に存在する欽明天皇陵の陪塚の石室であったという。刳り貫かれた石室内の幅は約1.5m,高さ約1.3mを測る。
駿府城巽櫓の北側には、回遊式日本庭園がある。駿府城時代には、北門と水路に挟まれた二の丸の一部であった場所であるが、廃藩後は陸軍歩兵静岡連隊の兵営の一部となった。戦後は都市公園の一部となり、さらに平成13年にはその一部約3000坪が、在城当時の本丸御殿庭園名にもあった「紅葉山庭園」として整備された。園内は、富士山、安倍川、東海道箱根越え、三保の松原、駿河湾、伊豆半島が表現され、茶室も設けられている。











(すんぷじょう 静岡市葵区)
今回は二の丸東御門と巽櫓(たつみやぐら)を訪れた。
平成元年に再現された南東巽櫓と、平成8年に再現された東御門は、「駿府公園再整備事業計画」の一環として行われているもので、南西坤櫓(ひつじさるやぐら)も再現に向けて発掘調査及び石垣の修復が進められている。将来的には、本丸跡の再現も行いたいということであったが、まだ暫く時間が要するであろうとを感じた。然しながら、当時の姿に近づけようとする意思は強いものに感じた。
(天守再現模型)
(青銅製旧東御門鯱矛 市指定文化財 重量約500kg)
(中堀と内堀を繋ぐ二の丸水路)
(中堀 二の丸水路口付近)
(内堀)
(修復が完了した坤櫓付近石垣)
(本丸跡徳川家康像)
(家康手植え蜜柑 県天然)
(清水櫓跡付近)
(中堀南門付近)
(二の丸乾角付近)
(北門付近)
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