(奈良県天理市)
言わずと知れた宗教都市である天理は、昭和29年(1954)に市制を敷くまでは丹波市町(たんばいちちょう)と言った。私はこのまちへは、昭和54年から縁あって数十回訪れているが、私の母方の親戚もこの地で融通念仏宗の寺院をしている。そして、現在私が履修している生涯学習教育の学校も、この地が発祥である。
今回の名張、伏見、奈良、大阪、飛鳥、吉野へ向けての起点はここからであった。
天理駅を降りると、商店の衰退が以前よりやや進んでいるように感じた。夕刻の三島本通を歩くと、閉店の時間であるため、段々と灯り消されていく。通りが終わると、天理教本部神苑である。十二年振りに訪れるが、変わらず壮大であった。然し、昭和61年(1986)の教祖100年祭を前に整備された周辺道路に対し、「おやさとやかた」(一周約3500mの神域を囲む建物計画)の建設は思いのほか進んでいないように感じた。聞くところよると、若人の宗教離れの影響が大きく、金銭的に加え人的力がやや減少しているからということであった。
(教祖殿)
(東・北・西礼拝場)
また、本部の地名(三島)は、そこに三島神社があったからであるが、明治8年(1875)三島神社西側が「天理王命:てんりおうのみこと」の「ぢば:地場」として定められ、拡大するに連れ神社が取り込まれる状態となった。天理教側は教祖100年祭に向ける準備として神域にある三島神社を神域外に移転する計画をし、それを実行した。このことについて、神社関係者及び氏子等に十分な移転説明がなかったことを遺憾に思うという話を、移転当時私はよく耳にした。この三島神社は伊予大三島(愛媛県今治市)の大山祇神社の末社であるが、その大山祇神社及び祭神の大山祇命(おおやまづみのみこと)も我が家が先祖代々崇拝してきた神社であり、そして世襲神職である三島家も遠縁にあたる。何れにしても、宗教観の影響も含め、私にとって感慨深い地であることには違いない。
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