flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

被爆地 長崎

2008-12-16 23:00:03 | 漂い紀行
 昭和20年8月9日午前11時2分、B-29爆撃機により、長崎市松山町に原子爆弾が投下された。これにより、死者7万3884人、負傷者7万4909人の被害者を出した。原爆落下中心地は爆心地公園となり、川に面して、埋没している被爆地層が保存されている。そして、北側の長崎刑務所浦上刑務支所のあった丘陵地には平和公園を整備、昭和30年(1955)に平和祈念像が建てられ、南側には平成16年に、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が設置された。更に平成20年には、平和公園、爆心地公園が国指定登録記念物となった。
(長崎平和会館)
(原爆資料館)
(追悼空間 光の間)
(長崎刑務所浦上刑務支所跡)
(平和祈念像)
  「長崎の鐘」
 
   (爆心地)
 

(関連記事:浦上天主堂
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志太

2008-12-15 18:00:38 | 漂い紀行
(静岡県藤枝市南駿河台)
 古代、地域の中心であったこの地。今も、志太地域の中では、最も繁栄しているといえる。千年前の郡役所跡の傍らで、往時と同じであろう光景を見かけた。
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浦上天主堂

2008-12-14 23:45:22 | かみのやしろ

(カトリック浦上教会 長崎市本尾町)
 西九州長崎に到着した。先ず、路面電車に乗り、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館、長崎原爆資料館、長崎市歴史民俗資料館を訪れ、続いて浦上天主堂、平和公園(平和祈念像)、原爆落下中心地を訪れた。
      (爆心地方面を望む破壊遺構)
 浦上天主堂は、明治12年(1879)聖堂を建立したのが始まりである。明治28年(1895)天主堂の建設が始まり、大正時代に入ってようやく完成した。然し、昭和20年(1945)8月9日、原爆投下によって爆心地に近かったこの教会は壊滅し、秘跡儀式の最中であったために、神父信者も命を落とした。
 
 戦後、破壊された天主堂の遺構を保存する運動が起こったが、教会側の意向で処分され、平和公園敷地内及び教会敷地内に一部の遺構と、教会内原爆資料室に被爆した建物の一部及び聖母像片、石像片があり、そして、被爆時の状態を再現した造型が原爆資料館に展示されている。

(関連記事:被爆地長崎 サント・ドミンゴ教会跡

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志太郡衙

2008-12-13 22:00:42 | いにしえの人びと
(御子ヶ谷遺跡 静岡県藤枝市南駿河台一丁目 国指定史跡)
  昭和52年(1977)団地造成の際に、奈良・平安時代の郡衙(郡役所)と確認された遺跡で、掘建柱建物、門、板塀、井戸、道路遺構のほか、墨書土器、木簡が出土した。南新屋古墳のある丘陵地に囲まれた場所にある理由は、往時網目状に流れていた大井川の氾濫を考慮したものであるという。
     
 遺跡には郡衙建物の一部が平成4年に再現され、そして一角には平成6年に開館した資料館があって、出土品等が展示されている。また、今回は職員の方から万葉植物の橘(ミカンの原種)をいただいた。
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西国へ

2008-12-12 22:30:35 | 漂い紀行

 雨上がりの濃い霧の中を西に向かった。
 新幹線での岡山以西は初めてである。広島を過ぎると、閑散とした車内になる。そして、すれ違う新幹線も4両、6両といった単編成が多くなる。新下関を過ぎると、間もなくして海底トンネルをくぐり、陸上からは初の九州入りとなった。
 「はよ乗らんといかんですよ」 「…したとですか~」…西国に入ったのだ。
 小倉を過ぎ、暫し田園を走ると、西国最大都市福岡博多に到着した。思いのほか狭い構内の博多駅は、九州新幹線開通準備のためか、駅ビル工事がされていた。その下を、かもめ号が入線してきた。各地の濃霧のため、やや遅れているようだった。白いかもめ号(885系電車)の車内は、板貼りの床、革張りの座席で重厚感がある筈なのだが、新幹線の後に乗ると、いささかオモチャのように感じてしまうのであった。
   
 更に西に向かい、佐賀平野を走る車窓からは、静かそうな集落が見える。海抜が低いのか、時折灰色の水たまりのようなものが見えた。そして、霧に覆われた有明海が現れ始めた。辺りは河川が運んだ堆積土砂であるため、何か大きい構造物を築く際には、しっかり潮抜きをして、深い地層からの基礎工事が必要であろうと感じた。更にトンネルを抜けると、辺りが暗くなった。空は曇天、霧が深く、干潟も灰色…その霧の流れ具合が、大河ドラマの一シーンように不自然に見えた…。
 
 午後一時過ぎに遅れての長崎到着。市電に乗り、まず平和会館、歴史民俗資料館、原爆資料館、原爆死没者追悼平和祈念館、浦上天主堂、平和公園、原爆落下中心地などに足を運んだ。
 

(関連記事:浦上天主堂 被爆地長崎 サント・ドミンゴ教会跡 長崎市立図書館 中島川の石橋 オランダ坂 旧長崎英国領事館 東山手十二番館 旧斉藤邸 東山手洋風住宅群 南山手乙二十七番館 祈念坂 大浦天主堂 大浦天主堂大司教館 旧羅典神学校 グラバー邸 旧三菱第2ドックハウス ウォーカー邸 旧長崎地方裁判所長官舎 リンガー邸 オルト邸 旧スチイル記念学校 日本最古アスファルト道路 南山手 ウィルソン・ウォーカー邸 織部燈籠 旧レスナー邸 旧イエズス会修道院日本本部 ドンドン坂 長崎ロシア領事館跡 古賀野氏宅 南山手乙九番館 旧バンザイ炭酸水会社工場 旧香港上海銀行長崎支店 旧長崎税関下り松派出所 長崎港 出島 旧出島神学校 旧長崎内外倶楽部 路電長崎 長崎を後に

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南新屋古墳群

2008-12-11 00:00:21 | いにしえびとの睡
(静岡県藤枝市駿河台一丁目)
 上流に塩分を含む温泉が湧出するため、塩出谷川と呼ばれる川沿いの丘陵には、古墳が存在する。秋合(あきあわせ)支群と萩ヶ谷支群からなる古墳群の一つで、御子ヶ谷遺跡(志太郡衙跡)と秋合遺跡の間に位置する。
 
コメント (2)
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火打坂古墳

2008-12-10 00:00:38 | いにしえびとの睡
(愛知県豊橋市大岩町火打坂 1990年12月15日)
 この日は、豊橋市地下資源館見学の後、背後にある火打坂古墳群を踏査した。22基からなる後期古墳であるが、滅失したものや規模が小さいため不明確になっているものが多い。付近は地名の由来でもある火打石(チャート:江戸時代以前の発火材料)が散見しており、墳丘にもそれら石が含まれている。また、一部の古墳には、埴輪を有しているものもある。
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藤枝松並木

2008-12-09 00:00:06 | 街道・宿場町

(静岡県藤枝市青木・志太)
 旧東海道藤枝宿西方には数本の松並木がある。往時から残る松ではないが、面影を今に残している。

(関連記事:南新屋古墳群 志太郡衙 志太 宇津ノ谷隧道 木和田川 宇津ノ谷越え 岡部坂下

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外山古墳

2008-12-08 00:00:30 | いにしえびとの睡
(愛知県岡崎市戸崎町外山 1990年12月12日踏査)
 日清紡戸崎工場内にある外山古墳を訪れた。工場の方にご案内いただき、3基の古墳の存在を確認した。
 外山3号墳には日清稲荷社の社殿が建ち、円墳で直径20m,高さ1.5mあって、傍らに一向一揆供養碑が建つ。外山2号墳は円墳で庭の築山となっており、残存直径5m,高さ1mであり、埴輪を有している。外山1号墳(トップ写真)は、ひょうたん塚と呼ばれ、前方後円墳であり、前方部は滅失しているが残存後円部21m,高さ2.5mを測る。出土する埴輪から5世紀後半とみられる。
(2号墳 北西から)(3号墳 南から)
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賀茂 坂井遺跡

2008-12-07 00:00:54 | いにしえの人びと
(賀茂遺跡群 愛知県豊橋市賀茂町坂井)
 間川北西、照山南東側に広がる台地、賀茂平に営まれた遺跡である。付近では縄文時代晩期の石器や土器が散見できる。また、坂井遺跡に隣接して、縄文時代以降の複合遺跡である賀茂神社境内遺跡群や大塚古墳等がある。更に私は以前、布目瓦を採集しており、八名郡衙がこの台地に存在したのではないかと推定している。
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蛇紋岩地帯植生

2008-12-06 00:00:38 | ご近所漫ろ歩き
(愛知県新城市中宇利字丸山 県指定天然記念物 1990年12月8日)
 私が初めて比丘尼城跡のあるこの丸山に訪れたのは昭和53年1月23日。それ以来、何度となく訪れているが、山の下刈りがあまり行われず、途中で引き返すということがよくあった。
 蛇紋岩は、斑糲(ハンレイ)岩や橄欖(カンラン)岩から変成したもので、アスファルトやバラスト等に用いられる石材に似ているが、それより更に光沢を放ち、蛇紋と呼ばれるように斑らな模様がある。岩石に含まれるニッケルやマグネシウムの影響で、地表の植物が育ち難く土が痩せてしまうこと、また、蛇紋岩自体が風化しやすいために崩れやすい地質となる。
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小照山

2008-12-05 00:00:59 | ご近所漫ろ歩き
(愛知県豊橋市賀茂町/豊川市金沢町)
 砕石によって小さくなってしまった大照山に連なる標高約80mの山である。名の由来は、大照山とこの小照山の間を通る逢坂(おおさか)で昔、火の玉を度々見かけたことからそう呼ばれることになったという。大照山斜面には、地区の墓地が存在するため、土葬時代にリンが燃えたことによる火を目撃したか、或いは金沢の地名由来である沢、この照山を源とする黄金沢が、雲母を含む地質に水が流れることにより、輝きを放つためにこう呼ばれるようになったとも考えられる。
 その後、小照山は東名高速道路築造によって南東側が削られ、北西側とは大きく容姿が違ってしまった。
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古村積神社古墳 発掘調査

2008-12-04 00:00:57 | いにしえびとの睡

(細川古墳群 愛知県岡崎市細川町長原 1990年12月5日再踏査)
 神社境内地となっている古墳である。帆立貝式前方後円墳であったとみられ、全長約29m,高さ2.5mであった。現在は、墳丘裾部のみの痕跡墳となっているが、付近に埴輪片が散見している。その埴輪から、6世紀前半の後期古墳と推定される。この日は社会教育課で第三次発掘調査が終えたことを聞き、その後向かった。トレンチがまだ残っていたが、この調査により後円部東側の範囲が確認できたようである。地元の人が、幕末頃に古村積神社がこの場所に建てられるまでは、完全な形で存在しただろうと語っていた。

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Job change

2008-12-03 23:30:11 | kourei-ki-日記-

…私のブログを見ていて、最近行動範囲が狭くなったのではないか?とお思いの人もいるだろう。実は、図書館関係者になったのであった。
 しかし、思いのほか綺麗で優しい職業ではなかった。それは、規模が大きくなればなる程、そのようになってくることのようだが…。

 私が今までから多用していた図書館も踏まえ、井戸の中の蛙にならないよう、各地の図書館と比較しながら紹介していこうと思っている。

「本のやかた」
http://blog.goo.ne.jp/kourei-flow/c/50615fb85b3e3b7189b967ade07b90c5
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ほの山 ほの川 平成二十年

2008-12-03 00:00:15 | 水のほとり
(本宮山 豊川 愛知県豊川市)

初冬を迎えた金沢橋からの光景である。
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