(静岡県熱海市熱海)
麓で鯵の叩き丼を食した後、後楽園駅からアタミロープウェイで八幡山駅に向かう。駅に併設されている、日本でここだけになった秘宝館があり、その上方には模擬天守の熱海城がある。眼下に熱海の街と錦ヶ浦が望め、遠く初島が見える。
初島
錦ヶ浦
アカオ前のアカシオ
熱海城
(熊本県天草市船之尾町 国指定重要文化財)
本渡地区を流れる町山口川に架かる石橋は、天保三年(1832)祇園社(八坂神社)参拝のために架けられた、長さ29m,幅3m,5列9行45脚の石橋である。近年、この橋を保護するため、町山口川の流路を変更する計画が持ち上がっている。
橋本徳壽歌碑「町山口川の 流れせきとめし 殉教者の むくろ数百千にして 名をばとゞめず」
(じしゅじんじゃ 京都市東山区清水 世界文化遺産 国指定重要文化財 旧郷社)
清水寺の鎮守であった地主神社は、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀り、寛永十年(1633)徳川家光によって社殿が造営されている。明治維新の神仏判然令によって清水寺と分離し現在に至っているが、清水寺との関わりから世界遺産では清水寺の一部として登録された。
(Chiesa di Santa Maria Assunta イタリア共和国リグーリア州ジェノヴァ県ジェノヴァ市イノチェンゾォ通り)
ジェノヴァ港及び旧市街を見下ろす高台にあるカトリック教会である。訪れたときは改修中で被いが掛けられていた。現存する聖堂は、ペルージャ人(現イタリア共和国)建築家ガレアッツォ・アレッシによって設計された、ルネサンス様式の教会建築である。1552年に築造が開始され、四百年の歳月をかけ1951年に奉献した。
(静岡県伊豆の国市中字鳴滝入 世界文化遺産 国指定史跡 近代化産業遺産)
嘉永六年(1853)ペリー来航によって日本は、外国に対する防御態勢が求められることとなった。そのため、大砲を造るための鉄を精製する炉が必要となり、幕府の命を受け韮山代官江川英龍と、子の英敏によって韮山反射炉は築造された。反射炉とは溶解室内の熱や炎を室内で反射させ、銑鉄(せんてつ)と呼ばれる砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄に当てて溶かし、良質の鉄を精製するものである。当初は加茂郡本郷村(下田市高馬)において築造が開始されたが、ペリー艦隊の水兵が築造地に侵入する事件が起き、急遽中村の現在地に移されて築造が進められた。反射炉は、炉部が伊豆石積み、煙突部が煉瓦積みであり、安政四年(1857)から元治元年(1864)まで使用され、鉄製18ポンドカノン砲や青銅製野戦砲等の西洋式大砲が鋳造されている。
砲身に削孔を開けるために水車が置かれた古川
灰穴
四角穴が焚口、ドーム穴が鋳穴
出湯口
(関連記事:萩城下町呉服町・堀内 グラバー邸 仙巌園集成館)
(静岡県熱海市)
熱海を漫ろ歩くのは平成十四年の大晦日以来である。依然として衰退の雰囲気を払拭できない廃墟遺跡が目に付くが、港は整備されていた。 宮坂
湯前神社
坂町
熱海七湯 風呂の湯・水の湯
熱海銀座
お宮の松
熱海駅
(熊本県天草市本渡町本戸馬場・船之尾町)
本渡のまちを見下ろす高台、標高76mの城山に存在した城である。永禄年間(1560-)に天草尚種によって築かれ、天正十五年(1587)天草種元のとき、九州征伐で豊臣秀吉に属したため、本領を安堵された。然し、翌々年の小西行長による宇土城普請に協力しなかった種元は、小西勢に攻められ本戸城は落城した。寛永十四年(1637)に勃発した対幕府の一揆である天草・島原の乱によって、城跡の一部が戦死したキリシタン達の埋葬場(千人塚)となった。また、昭和41年(1966)次郭跡には、その歴史を伝える天草切支丹館が開設されている。
天候回復の賢島での朝を迎え、近鉄特急12600系サニーカーで西に向かう。大和八木からは橿原線・京都線特急22600系Aceに乗り換え、京阪線乗り換えの丹波橋に向かった。 1201系名古屋線白塚行(津市)ワンマン車
急曲線の志摩線区間
(Chiesa di San Marco al Molo イタリア共和国リグーリア州ジェノヴァ県ジェノヴァ市モーロ通り)
ジェノヴァ港に隣接する教会である。1173年に創建されたカトリック教会であり、港側は石材で城壁のように覆っている。第二次世界大戦で破壊されたが、間もなく修復・改修されている。
(静岡県伊豆の国市)
伊豆長岡温泉は旧伊豆長岡町であるが、伊豆長岡駅付近は旧韮山町である。伊豆長岡駅は明治31年(1898)南条駅として開業したが、大正8年(1918)長岡温泉の利便性を考慮し伊豆長岡駅と改称されている。
(関連記事:韮山反射炉)
(さんてぃんもうといーびんめー 沖縄県糸満市糸満 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選)
糸満ロータリーの程近く、糸満漁港を見下ろす高台がある。1429年、南山王の他魯毎(たるみい)が、中山王の尚巴志(しょうはし)の攻撃を受け、妻子と共に自害した場所とされる。丘腹にはこの地特有の門中(一族墓) や御嶽(うたき)があり、頂には1999年に建てられた展望台の他、 昭和天皇の即位を記念して1932年に白銀神社改築期成会によって建てられた御大典記念山巓毛改修碑、「皇太子殿下御誕生記念・昭和九年八月一日建立」と刻まれてた国旗掲揚台、1943年、沖縄県警防課によって設置された糸満防空監視哨の跡がある。
山巓毛の西側には海神を祀る御願所(うがんじゅ)白銀堂があり、次のような言い伝えがある。昔、糸満村の漁師が漁の途中で遭難して船と漁具を失った。その光景を見た薩摩の武士は漁師にお金を貸したが、不漁が続いて漁師は約束の期日に金を返す事ができなくなった。漁師は洞窟に隠れていたが武士に見つかり、怒った武士に刀で切られようとしたとき、漁師は「イジヌイジラー ティヒキ ティヌイジラー イジヒキ」(意地が出たら手を引け、手が出たら意地を引け) ティヌイジラー イジヒキ(意地が出たら手を引け、手が出たら意地を引け)」と言う琉球の諺を言って許しを請うた。武士はその言葉で気持ちを鎮め薩摩に帰ったが、玄関に自分のものではない男ものの履物があった。武士が部屋に入ると、妻が見知らぬ男と寝ており、怒りの気持ちを抑えきれず刀を振り上げたが、漁師に聞いた諺を思い出し、冷静に見てみると妻の横に寝ていたのは男物の着物を着た母親だった。それは武士の留守中、一家に男がいないのは危険だと考えた母親の行動であった。翌年琉球へ戻った武士は、漁師の所に行くと、漁師は礼と共に借りたお金を差し出す。然し武士は自らのそれまでの経緯を話し、お金を受け取らなかった。そこで、漁師か隠れていた洞窟の前にお堂を建て、海上の平安と村の繁栄を祈ることにしたという。
糸満漁港方面
糸満ロータリー
1
白銀堂
(愛知県北設楽郡東栄町本郷字大森 1990年6月13日再踏査)
9年振りに静岡県境東栄を訪れる。前回も訪れた博物館、民芸館、花祭館のある大森の丘は、縄文時代晩期末の水神平式土器(三河地方編年式)や打製石器、弥生時代中期の続水神平式土器が出土する遺跡や、火塚、金塚と呼ばれる古墳がある。古墳はかつて5基存在し、1号墳は直径20m,高さ3mの円墳で、墳頂に忠魂碑の建つ2号墳は直径14m,高さ2.5mである。
(静岡県下田市)
伊豆半島は観光が第一産業であり、休日、季節、催し等によって左右されるため、宿泊施設運営は安定しない地域といえる。最初の写真は、昭和32年(1957)東海観光下田グランドホテルとして下田港を見下ろす城山に開業した、RC造5階建101室プール付きのホテル跡である。昭和42年(1967)12月28日に火災を起こし、後に改修。昭和62年(1987)自主運営となった後、平成12年(2000)に廃業となった。 次は国道135号線と下田港に面するRC造3階建23室の下田富士屋ホテル跡である。隣接して現役のホテルがあり、温泉地でよくみられる盛衰混在の光景がある。