脚本家の倉本聰氏は言う。「これは明らかな戦争である」と…。コロナウィルスが我々人類に対して仕掛けてきた戦争であるが、彼らの云い分が何なのかさっぱり判らないという。倉本聰氏の言葉に耳を傾けた。
またまた「都市緑地めぐり」の連載にサンドイッチするように、今私が気になっているエピソードを取り上げることにした。
私は過去30数年にわたって月刊「文藝春秋」を愛読している。時宜を得た話題満載でいつも楽しませてもらっている。そして時には私の琴線を揺さぶるような論考に出会うこともある。先日発行された7月号において「コロナ大戦・考 抜けるような本物の空の蒼に」と題して倉本聰氏が一文を寄せていた。その一文を読ませていただき、「ガッテン!」との思いを強くし、ブログの話題として取り上げてみようと思った。
倉本氏はコロナウィルスが人類を攻撃する理由を知りたいと語る。しかし、倉本氏はその理由を十分に分かっていながら、そう言っている節がある。氏は「もしかしたら」と断りながら、「近頃ひんぱんに起こる異常気象や洪水や旱魃、地球高温化や山火事や地震、あれらが彼らの我々に対する警告の意思表示だったのかも知れない」と推測する。
倉本氏は今から43年も前になるが、脚本家として華々しく活躍されていた最中に東京から富良野の田舎に移り住んでいる。その理由は、経済一辺倒で動いてゆく東京から離れることで精神的なバランスを得ることが理由の一つだったと伺った。そしてあの名作「北の国から」を産み出した。
同じころ倉本氏は富良野において劇団「富良野塾」を主宰している。その「富良野塾」の塾生が演ずる「谷は眠っていた」という演劇の中で、倉本氏は次のように観客に問いかけた。
あなたは 文明に麻痺していませんか。
車と足はどっちが大事ですか。
石油と水はどっちが大事ですか。
知識と知恵はどっちが大事ですか。
理屈と行動はどっちが大事ですか。
批評と創造はどっちが大事ですか。
あなたは感動を忘れていませんか。
あなたは結局何のかのと云いながら、
わが世の春を謳歌していませんか。
この問いかけは1993年のことである。私はこの問いかけに強く心をゆすぶられたことを憶えている。
つまり倉本氏はずーっと以前から、文明に麻痺し、何の疑いも抱かずに享楽に堕する人類に対して警告を発し続けていたのである。
今回の論考において倉本氏はコロナとの戦いに勝つために「孫氏の兵法」を例に挙げてその戦い方を提言しているが、本心はそこにないと私は見る。
倉本氏の中では、人類が経済至上主義に走り、アマゾンやアフリカの奥地まで踏み入り、コロナの生息地に土足で踏み入るような真似をしたことのしっぺ返しを受けているのだと主張しているように思えるのだ。
倉本氏は最後に、コロナ騒動で経済活動がストップしたことによって、富良野の空が何十年ぶりに抜けるような本物の空の蒼さを見たという。倉本氏の最後の言葉「経済活動の止った空は、久方ぶりのなつかしい空の色だった」の一言に倉本氏の思いが溢れていると思った。
何のかのと云いながらわが世の春を謳歌している(?)自分自身を反省しながら…。