「角幡唯介」というと知る人ぞ知る、探検家・冒険家として今や日本の第一人者と称しても過言ではない実践家である。と同時に彼の文筆の才は群れを抜いている。私は彼の実践、彼の文章に心酔する一人である。
角幡唯介がこれまでに出版した「空白の五マイル チベット 世界最大のツアンポー峡谷に挑む」、「雪男は向こうからやってきた」、「極夜行」などはすでに読破していた。
彼が最初に著した「空白の五マイル~」を読んだとき、私の中に衝撃が走った。それはもう命からがらの冒険行が鮮やかにイメージできる見事な筆致で描かれていたからだ。その破天荒な冒険、そしてその様子を著した文章力は多くの人をうならせるに十分だったようだ。彼はこの一冊で、「開高健ノンフィクション賞」、「大宅壮一ノンフィクション賞」をダブル受賞している。
「極夜行」もまた、常人が考えつかないような破天荒な冒険なのだが、今回はそのことを表すのが趣旨ではないので割愛するが、凄い冒険家がいるものである。
今回私が読んだのは、「探検家、40歳の事情」と「新・冒険論」である。
「探検家、~」は エッセーであり、「新・冒険論」は彼の冒険に対する基本的な考えについて真摯に追求した文章である。
「探検家、~」は探検中に起こったこと、奥さんとのやりとりなど、時にはユーモアも交えて、彼のこれまでの来し方を平易に綴った文章である。
一方「新・冒険論」の方は、彼が早稲田大学で探検・冒険に出合い、朝日新聞記者の職まで捨てて、探検家・冒険家となった経緯と共に、彼の考える冒険について深く思索した内容である。その文章の中で特に彼の冒険に対する考え方が色濃く出ている「人はなぜ冒険するのか」の一節を紹介してみたい。
「冒険者は脱システムすることで、自力で命を管理するという、いわば究極自由とでも呼びうる状態を経験することになる。この自由にはたしかに不快で面倒くさい側面があるが、同時に圧倒的な生の手応えがあるので、一度体験するとそれなしではいられないようなヒリヒリとした魅力というか中毒性もある。(以下省略)」
彼がここでいう「脱システム」とは、現代文明が利便性を獲得していく過程においてあらゆるモノやコトがシステム化していったが、そこから脱することが冒険ではないか、と彼は問いかけているのである。その思いを実践したのが「極夜行」なのである。北極圏で太陽がまるで昇らない闇夜が続くことを「極夜」というそうだが、その極夜のグリーンランドを80日間にもわたり一匹の犬と共に歩き通した記録である。その間、彼は文明の利器である GPSは使わず、昔ながらの六分儀を用い星空を眺めて現在地を把握したという。また、多くの冒険家が “もしも” の時を考えて携帯する衛星電話も拒否して決死の冒険に挑んだ記録である。つまり彼は脱システムの冒険を実践したのだ。
実は、私は彼が札幌で行った講演会で彼のお話を聴く機会があった。そのときに彼の口から聴いた印象的な言葉があった。それは「ヒリヒリ」という言葉だ。彼はその言葉を何度も口にしたように記憶している。「ヒリヒリ」とは、まさに生と死のはざまを行くときの感覚を表しているだと私は理解した。もちろん彼はこれまで「ヒリヒリ」とした感覚を感じながらも、これまでその死の淵から還ってきているのだが…。
私が心配するのは、彼がこれまでの体験よりさらに踏み込んで、より「ヒリヒリ」した感覚を味わいたいと望みはしないか、という心配である。彼は今45歳だという。そろそろ自らの肉体を駆使しての冒険を卒業する時期に来ているのではないだろうか。
彼が今後どこへ向かおうとしているのか、非常に興味あることである。彼の最近の連載「エベレストには登らない」が評判だそうだ。彼の中ではシステム化されてしまったエベレスト登山などにはなんの魅力も感じない、ということだろう。いかにも角幡唯介氏らしい。彼の文筆家として大成を期待したい。