田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ご冥福をお祈りします 高石ともやさんの訃報に接して…

2024-08-19 15:50:17 | その他
 本日のYahooニュースで高石ともやさんが膵がんで亡くなられたことを知った。享年82歳だったという。高石ともやさんは、私にとって唯一ファンとシンガーという垣根をちょっとだけ越えて微かにではあるが交友させていただいた方である。高石さんのご冥福をお祈りしながら、高石さんとの思い出の日々を振り返ってみたい。
 
 私と高石の最初の出会いは、私が大学2年生の時に彼がギター一本で広い体育館のステージでワンマンライブを行ったのを聴いたのが初めてだった。その時私が20歳だから、彼は25歳、デビュー間もない時期だったと思われる。途中休憩も取らずに2時間歌い切ったことを鮮明に記憶している。
 そして私は道東地方(網走管内、現在はオホーツク管内と称している)の一教師として勤務していた。当時の網走管内には高石ともやファンが多数いたようだ。津別町、置戸町、生田原町…。高石ともやは彼らの要望を受け、網走管内にしばしば訪れていた。私はその度に駆け付け、彼の歌に耳を傾け、いわゆる彼が歌う元祖フォークソングの魅力を感じていた。そして「いつかは私も彼のステージを招いてみたい…」との夢を育んでいた。
 やがて夢は、私が社会教育主事という職務で東藻琴村(現在は大空町)教育委員会に派遣されたときに実現することになった。村の青年たちと交友を続けていた私は、彼たちに私の夢を語った。すると青年たちは高石ともやの存在を誰一人知らなかったが「やりましょう!」と賛成してくれたのだ。彼らの応援を受け、人口2,900人の村で600人を「高石ともやとナターシャセブンコンサート」(コンサートのテーマ「光と風とナターシャと」)に集めることができ大成功を収めた。(1982年)

     

 コンサート後の打ち上げでステージを務めたメンバーと実行委員会の人たちとで痛飲したのも懐かしい思い出である。 

       
       ※ 打ち上げの席で高石さんに書いていただきました。

 コンサートは私の仕事として取り組んだのではなく、あくまで余暇を利用しての活動だったが、翌年には私自身の仕事(社会教育主事)の一環として高石ともやを村民大学の講師として招請し、「自然と歌と子育てと」というテーマで村民にお話してもらったが、彼の子どもは肢体不自由児なのだが、奥さんと協力して明るく育てていることを率直に語ってくれたことも嬉しかった。(1983年)
 そして私は再び教師に戻り、網走市の能取小学校という学校に勤務していた。その時高石ともやはサロマ湖100キロマラソンに参加し、その足で札幌まで走り通すという「ワイルドラン」に取り組むことを知った。

   
 能取小学校はそのコースの途上にあったので、私は子どもたちに彼の持ち歌「私の子どもたちへ」(高木透 作詞・作曲)を教えて、彼が通る時にその歌を全校合唱して彼の挑戦を声援したのだ。彼の動静を伝える民放の番組がテーマソングのように子どもたちの歌声を流してくれたのも懐かしい思い出である。
    
その時は北海道新聞社から「高石ともや 走った!笑った!歌った!」という記録集を発刊したが、その中で合唱している写真や子どもたちの作文がたくさん掲載された。(1994年)

    

 また、その翌年、彼が網走市でちょっと小規模のコンサートを開催した時に、客席にいる私を見つけて「来い、来い」と手招きして私をステージ上に上げて一緒に「私の子どもたちへ」を一緒に歌わせてもらったのも楽しい思い出である。(1995年)
 彼はまた市民ランナーとしても有名で、網走管内を訪れた時には田舎の駅伝マラソンに参加したり、全国各地のマラソン大会に参加したりしていたことは有名である。私もその影響を受け(?)、職場で駅伝チームを作って地域の駅伝大会に参加したり、僅か一度だけであるが1985年に山梨県河口湖で開催された「河口湖日刊スポーツマラソン」に参加したのも高石さんの影響を受けた結果だと思っている。

      
   ※ 39歳の時の初マラソン、4時間をわずかに切ったタイムが密かな自慢です。

 また彼の創った歌で「街」という曲がある。内容は京都の街の情景を歌った曲であるが、私はそれを勤務したオホーツク海に近い街の情景に置き換えた歌を作詞し、教室で子どもたちと歌っていた。するとそれがどこかに伝わり、NHK・TVの地域番組において歌わされたというとんでもない体験もさせていただいた。その一節を紹介すると…、

  白鳥の舞 凍てつく海 吹き渡る風の音
  キタキツネの親子 白い野原に遊ぶ
  この街が好きさ 君がいるから
  この街が好きさ 君のほほえみあるから…
 
 「この街…」以下は、高石ともやさんが創ったフレーズをそのまま使わせてもらった。
 さて、その後私が札幌に転居してからだが、JR札幌駅コンコースにおいての「5時間歌マラソン」に5時間付き合ったり、彼が札幌を訪れた時は欠かさず彼のコンサートに足を運んだりしていた。
 彼のステージの最後は昨年4月29日に市民交流プラザ・クリエイティブスタジオにおいて札幌音鑑の4月例会で聴いたのが最後となった。
 振り返ってみると半世紀にわたって高石さんを追い続け、私に大きな影響を与えくれた高石ともやさんに心から感謝し、ご冥福をお祈りしたいと思う。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高石ともやさんの存在・・。 (夢逢人)
2024-08-19 21:52:46
今回、貴兄が改めて高石ともやさんの長年の交流を知りまして、
良き思いで深いことを学びました。

貴兄が20歳以来からの長年の歳月・・
高石ともやさんの存在は、貴兄の人生航路を彩ったひとりの御方、
と改めて学びました。

そして私も、高石ともやさんにご冥福を祈ります。
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夢逢人さんへ (田舎おじさん)
2024-08-19 23:07:00
 夢逢人さん、コメントありがとうございます。
 私は夢逢人さんほど音楽について造詣は深くはないのですが、高石ともやさんだけは特別な存在でした。
 高石さんが同じ北海道に生まれたという親近感も手伝って、さらには学生時代に彼の存在を知ったこともあって、私には特別な存在となっていきました。
 そして彼の音楽も、生き方も、私からは眩しく見える存在でした。そうした思いが、私の生き方にも大きく影響を与えてくれたと思っています。
 私にとっては大きな喪失感です。
 高石ともやさんのご冥福を祈るばかりです。
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