通り過ぎた人が男に気がつけば、かなり憔悴しているのに驚いただろう。
男は目を閉じて、遠い昔を彷徨っている。
まだズッと若かった頃、田舎暮らしに嫌気をさして
故郷に一人母親を残して上京した。
有名になってやる。お金だけが自分の人生だと、がむしゃらに生きて
研ぎ澄まされたようなナイフで人を傷つけるような生き方をしてきた。
そんなささくれ立った生活でも、かなりの富を得て
だが、そういう生活は長く続く事もなく
気がつけば男に居たはずの妻や子供は、すでに遠く離れてしまい
今はただ、空っぽで渇き切った心だけが男のすべてだった。
いつだっただろうか…母親を見送り、生まれて育った家を処分して
これで男には故郷と呼べるものは何もなくなってしまった。
裏切られ見捨てられて、何もかも失くした男にとって
今はすでになくなってしまった故郷への望郷の思いか。
フッとひとつ…男は重いため息をついた。
何処へ行こうとしているのだろうか。
やがて最終電車は終着駅へと、静かに速度を落として止まった。
荷物ひとつ持たない男は、重い腰をあげて
古びた駅員もいない無人駅のホームにたたずみ
冷え切ったようなベンチに腰をおろし
ポケットからくしゃくしゃにねじれた様なタバコの箱を取り出して
一本のタバコに火をつければ、誰もいない駅のホームに紫煙が流れる。
どのくらいそこにいただろうか。
やがて男はゆっくりと立ちあがると、暗い何もない駅の外へと姿を消した。
道だけが白っぽく…ずっと暗闇の奥へと続いている。
その道を男はゆっくりと歩きだした。
どのくらい歩いただろうか、道は山沿いを遠回りするような感じで続いて
夜が明けるには、まだだいぶ時間があるようだ…しかし そんな事も介せず
何本目かのタバコに火をつけて歩き続けていた。
まだだったのだろうか…駅からこんなに距離があったのだろうか
自問自答をしながら、ようやく見覚えのある山が目の前に立ちはだかって来た。
疲れた…男はしばし立ち止まり辺りを見回して
特に感慨も覚えず、また静かに歩き始める。
そろそろ山の頂が明るくなり始める頃。
あの角を曲がれば…そんな思いが男を突き動かす。
あの場所へ行ってどうするのだろうか…何が男を待っているというのだろうか。
それでもあの場所へと行かなければ…男は生き続ける事が出来ないのだろうか。
あの場所へ行けば何か答えが見つかるのだろうか…それとも何も変わらないのだろうか。
疲れ切って荒んで、何もかも失って…生きる気力さえとうに失くしていた。
男はこの故郷で最後の眠りに就くために…自分を葬るためにやってきたのだ。
着いた、ようやく目的の場所に!
突然目に飛び込んできたのは、懐かしい小川と朽ちた様な木の橋と
何世紀にも渡って、雄大な姿を見せた故郷の山と…そこから日が昇り始めている。
男は固まったまま動けなかった。
男の脳裏にはフラッシュバックのように子どもの頃の記憶が蘇り
あの川で魚を捕まえた…あぜ道には夏になると星空のような蛍の群れ
あの山から日が昇る頃に起きて、反対側の山へ日が沈む頃まで遊び
山の中を縦横無尽に駆け回った…あの頃のままだ!
身じろぎもせずに、昇りゆく朝日を体中に浴びて
やがて、渇き切った男の胸に温かいものが溢れて来る…両の目から流れる熱い涙。
なんでだ!男は絞る様につぶやく。
冷え切った男の心に暖かい日差しが降り注いで
まるで母の胎内にいるような快感を覚えた。
生きていける…まだ生きられる。
男に力強い気力が漲りはじめる。
やり直せる…男は確信した。
そして随分長く故郷の景色を眺めていたかと思うと
踵を返して男は来た道を駅に向かって歩き始めた。
来た時のような無気力な死の影を引きずっているような
そんな気配は微塵にもなく、力強く帰って行く男の後ろ姿を
何世紀も前から同じように日が昇り日は沈んで…どのくらい繰り返しただろうか
そんな故郷は誰に心の中にもあるものなのだと…教えてくれたのだろうか。
という事で、今回は写真を使わず
ねこのおやぶんさんからいただいた絵をUP!
ねこのおやぶんさんからいただいた、この故郷を思わる一枚の絵。
『ひとりぼっちのひとり言』を想定して描いていただいた。
鴨を入れずに風景だけの絵に、何か創作をと考えて
この文章の挿絵にさせていただいた。
明るく力強さを感じさせるこの一枚に、私はすっかり魅せられてしまったようだ。
おやぶんさん ありがとうございました。
事後承諾ではありますが、トラックバックさせていただきました。