津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録に見る関ヶ原(1)

2013-03-04 13:51:52 | 歴史

一、慶長五年八月廿五日、岐阜より赤坂へ御押詰、忠興君初之御陳所大垣江向ひたる田端ニて大垣へ之道有之候間、西郡大炊助・住江小左衛門両人
  物見ニ被遣、道筋の体御聞届被成、陳小屋の様子等被仰付候
    西郡・住江か物見の次第御意に叶ひ、御褒美として西郡ニ備中宗次、住江ニ粟田口藤馬之允則国の御腰物を被下候、西郡か家の申伝に、右物見
    被仰付候節、彼辺の地利・敵方の様子等諸将とり/\御噂之中に、両人罷帰詳く申上候処、忠興君思召之通候哉、よく見申たるとの御意ニて、御
    機嫌能御座候よしなり、右宗次之御腰物今以持伝申候
       武徳安民記ニハ、岐阜を攻し東国勢悉く赤坂に進て岡山の四方に屯を張る、中務太輔籠けるを、細川・黒田の両将是を襲ふ中略、中務砦を棄
       て大垣に帰ると云々、いまた詳く不考
  扨しのひを入て敵の形成を窺はせられ候中にも玄蕃殿江御談合ニて、田伏八右衛門と申忍の巧者を被遣候ニ、無程罷帰、大垣江入たる証拠に頭を
  取腰差を添持帰候、腰差は嶋津家の紋なり、一ニ鈴と脇差を取帰ると有
一、廿六日、加賀より飛脚到着、八月二日大聖寺の城攻破山口父子討取候、其元御左右次第坂本へ可押出由之注進有之
一、廿八日之比 一ニ五月二日三日比、宇喜多秀家の人数八千程、伊勢路より大垣ニ押入る、赤坂より足かゝり悪敷御かまひ無之候
    考ニ、秀家も此砌着陳の左馬ニしるしたるも有之候へ共、此前後の事諸書に出たる趣、いつれに其身ハ八月十日比ニ大垣の城ニ参着、此節ハ人
    数はかりかと被存候
  大谷吉継ハ藤川に陣を張、秀家・三成等々専ら軍議いたし候由、西軍陳取の様子ニ依て、池田輝政の陳所先手口ニ成候故、忠興君より御陳替可被
  成と仰られ候を、初ハ同心なかりしとも、此方理の前なる上は頓て御陳替なり、此陳所昼飯村の内野山の高ミにて、大垣よりハ戌亥ニ当、大垣も伊勢
  路も一眼にみゆる、偖(さて)敵陳より足懸り能候間、夜討の用心別而入念被仰付、山の手に二ヶ所の口を開上簀戸有、加藤嘉明の陳所ハ古城の様
  成小山にてきれ離らつ所ゆへ、忠興君本陳の前通りより嘉明の陳所迄五六間の道を作りかけ、何時も御加勢可有御様子なり
    考ニ一書ニ、八月廿七八日之比、大谷吉継大軍を卒し関ヶ原ニ出張、池田氏の陳所関ヶ原の先手口ニ成候間、忠興君本文之通御陳替と有、又安
    民記、五月朔日越州敦賀を発し関ヶ原の西藤川の台に着陳し、山中海道ニ柵を構、木戸を営し屯を張とも有、然れとも大谷ハ自是以前大垣へ着と
    見へ申候、此節ハ人数はか来候か、忠興君御陳替此故ニ候哉、いつれに八月・九月の打ち幾日と申儀不分明、又後風土記、忠興君御陳所ハ本福
       昼飯の内の小名のよし と云所と有之、又岩間か家記ニ、(岩間)清次儀関ヶ原御陳ニて夜中御側ニ相詰居候処、三齋様御意被遊候ハ敵の籏色らしきも
  の相候若夜討を仕懸候哉と被思召召上候、敵陳別条無御座、水田有之候ニ月影移籏色之様ニ相見候、罷帰其段申上候、其彼水田近辺御馬ニて御
  通被成候刻、先夜見届候水田ハ此辺かと御意ニ付、此元ニて御座候由申上候ヘハ、何そ印なと見置候哉と被為成御意候、則此田頭に札を二ツ立置
  申候由申上候ヘハ、其札は何方ニ有之候哉と御意ニ付、右立置候札二ツ取差上候処、何も清次形を見置候様ニと被遊御意候と云々
 

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戦国坊主列伝

2013-03-04 08:18:57 | 書籍・読書
    戦国坊主列伝 (幻冬舎新書)
 
        幻冬舎

内容紹介

<名僧・怪僧31人の波乱の生涯>
・徳川三代にわたり絶大なる政治力を発揮──南光坊天海
・武家諸法度を起草した偉大なる悪役──以心崇伝
・信長を最も苦しめた石山本願寺の祖──蓮如

「黒衣の宰相」と称されるように、戦国時代の僧侶は、権力者の側近として軍事・政治に大きな影響力をもっていた。たとえば武田信玄のブレーンだった快川紹喜、伊達政宗の教育係だった虎哉宗乙、今川義元の軍師として出陣した太原雪斎──さらには、安国寺恵瓊のように戦国大名にまで上り詰めた者もいる。本来、世俗と無縁なはずの僧侶が歴史の表舞台に立つことになったのは、当時の彼らが稀有な「知識階級」ゆえだった。名僧・怪僧31人の数奇な人生を詳らかにし、戦国時代の知られざる側面を解き明かす。
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