津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川幽斎 (コレクション日本歌人選)

2013-03-13 11:53:20 | 書籍・読書
            細川幽斎 (コレクション日本歌人選)
 
                      笠間書院


この本の存在を知ったのは、読売新聞の「本よみうり堂」の「書評」のコーナーからである。
或る人が「日本の古今東西の歌を集めた選集を作って下さい」と、60億円の小切手を託されたことがこの事業の始まりだとしているが、本当かしらん・・・・
笠間書院のサイトを見ると60人の歌人を対象に、三期に分けて刊行されたという。何冊か読んでみたいというものが目に留まったが、何はともあれ津々堂としては一番に求めなければならないのは、「細川幽齋」であろう。商品案内には次の様にある。

内容説明

うたの森に、ようこそ。
柿本人麻呂から寺山修司、塚本邦雄まで、日本の代表的歌人の秀歌そのものを、堪能できるように編んだ、初めてのアンソロジー、全六〇冊。「コレクション日本歌人選」の、細川幽斎です。

和歌、連歌、俳句の上手である。
茶道、能楽、刀の目利き、何でもその奥儀に達せぬものがない。
(1行くらいやや空ける:続きの文章ではないので)
信長も、秀吉も、家康も、彼を見るときは、みんな特別な眼つきをした。 松本清張

細川幽斎 ほそかわゆうさい
戦国時代に文と武に生きた武将。本名細川藤孝、玄旨また幽斎と号した。足利義昭と織田信長に仕え、有識と歌学の知識によって秀吉や家康に信任された。三条西実枝から『古今集』の秘事を、九条稙通から『源氏物語』の奥義を授かり、二条家の歌風を中世から近世へと継承。丹後田辺城を石田三成軍に囲まれたとき、歌道の滅亡を恐れた後陽成天皇が綸旨を発して救出したことは有名。熊本細川家の家祖となり、子に三斎(忠興)を持つ。多くの弟子を有し、松永貞徳もこの幽斎から歌を学んでいる。
 

著者について

1974年岐阜県生。名古屋大学大学院博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。現在 豊田工業高等専門学校准教授。
主要著書・論文『庵文庫目録と資料』(共著、日本書誌学大系93、青裳堂書店)「小沢庵の和歌指南安永期の添削資料を中心にー」(『中世近世和歌文芸論集』所収、思文閣出版)
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綿考輯録に見る関ヶ原(9)

2013-03-13 10:58:23 | 歴史

 忠興君の御家士各分捕高名して、諸方より馳集り御備も厚く相成候、中ニも加々山庄右衛門ハ以前忠興君敵中へ御乗込被成候時、御供ニ而馳入 一ニ
   胆
吹山の下ニ而石田・島津備の前をと有 御暇乞申上、猶先へ乗入数人を切捨て、後首一ツ取御前へ持来り候、有吉与太郎康政ハ大谷刑部少輔内古河太兵衛と
 云母衣武者と互ニ名乗合馬上ニ而鑓を合、太兵衛を馬より突落し飛下りて首を取、母衣を取て敵の首を包候ニ、其身も鑓合の時手負 左の股、一ニ左のニの
  腕
候ゆへ、家人ニ其創を巻せ馬ニ打乗、又敵中ニ馳入んとする、是より先葛西九兵衛ハ小高き所ニ而鑓を合敵を突伏首を取、立あかる所を鉄炮ニ而
 股を打抜れ候間、側にて働居候若党此体を見て敵を打捨馳寄、九兵衛手創を保養いたす折節、与太郎高名して剰(アマツサエ)手を負なから又敵ニ懸らん
 とするを見て九兵衛声をあけ、手を御負候と見へ候、御籏本ニて首を実検ニ入られ可然と申ニ付、与太郎馬を留め居たる所ニ、家士各首を取康政か前
 ニ来ニ付、母衣籠の破れたると縨衣と首に添て 母衣絹ハ浅黄ニ黒き三文字付 忠興君御籏本へ参る坂中にて、田井助八も敵を討未首を取さりしか共、
 康政御旗本へ参るを見付追着けるに、葛西九兵衛手を負て坂の上に有り、召連参へき旨康政申候を、御供ニ後れ九兵衛を連ニ参候儀存も不寄と云、
 其儀ならハ我等可行と康政申ニ付、助八立帰り九兵衛か馬を尋出し、かき乗て連来る、与太郎も坂下ニ待合居候、其時助八、御供ニ後れしど思ひ敵の
 首を不取残念なり、と云を与太郎聞て、あれへ行は敵と見ゆる討取れ、と云けれは助八追懸けるに、敵持たる鉄炮を取直す所を急ニ斬懸候ヘハ、鉄炮
 を捨刀を抜合せ候得共、切伏せ首を取、康政に追付候也、康政は福嶋氏の備近く通り候を正則見て、何れの手の衆そと御尋あり、羽柴越中守内有吉
 与太郎康政と名乗通り候ニ又使を以、有吉と候得ハ四郎右衛門の子ニて候や、手を負れたると見へ、殊ニ高名も有之たると見へ候、未若輩なるに見事
 の様子、越中殿へ咄可申と被仰越候、扨忠興君御覧被成、扨々手柄をいたしたり、先手創を保養いたすへしと被仰候、米田与七郎も能敵を討取、伊吹
 山の麓田端江腰を懸家来を待居たる所ニ、吉岡弥三郎是を見付討洩されたる敵と心得、何者そと詞をかくる、羽柴越中守者なりと云、名前ハ何と申そ
 と又々尋候ヘハ、吉岡弥三郎と云、扨ハ能所ニ参たり、米田与七郎今敵の首を討取しと云て見せ候せ候ヘハ、弥三郎様子を聞、扨々お手柄と感申候、
 与七郎申けるハ、其方ハ本陳ニ参り玄蕃殿へ此通申呉候へ、某も追付可参と申ニ付、弥三郎急き御旗本へ参り玄蕃殿へ申達候ヘハ、忠興君聞召付ら
 れ御直ニ様子御尋被成候内、与七郎山の尾崎を越馬ニて参候を、忠興君御側ニ被召寄、親か居ならは如何計悦ん物をと被仰、御落涙被成候か与七
 郎顔ニ掛り候となり、此砌ハ大将衆も追々御集り御一所ニ御座候ニ、忠興君、あの者ハ岐阜ニ而討死を遂たる米田助右衛門忰ニ而候と被仰候ヘハ、
 何も感涙を催し給ふ、中ニも嘉明(加藤)被仰候ハ、家康公御運被開の間一廉御褒美も可有候、国へ帰り候ハゝ彼者大身ニ御なし候へ、と玄蕃殿ニ向
 ひ、忠興君御聞候様ニ御申候也、其時あたりニ古藪のありけるを忠興君御覧被成、ヶ様の所ニハ落人なとかゞみ居るもの也、と御詞の下より敵一人走
 出けるを、与七郎其儘討留候間、一段御機嫌能御座候なり
     与七郎高名の時ハ、真下七兵衛一人馬の口を取居候て七兵衛申候ハ、弥三郎能御見置候へ、与七郎ニハ我等一人付居候間、左様ニ御心得候
     へと申、 弥三郎答て、其方事兼て頼母敷存候ニ一段見事ニ而候由申、御本陳ニ参候と也、弥三郎ハ忠興君より御知行百石被為候拝領候へ共、
     如何なる故にや御暇被下一生浪人ニ而あなたこなた仕り、河喜多九大夫方へ居候内、米田監物家来塩木喜助と申者見廻ニ参、軍物語抔有之候
     時、岐阜関原ニ而監物高名之時も供をして付添由申候ヘハ、弥三郎聞て、いや夫ハうそニ而候、関原ニて監物殿高名の時ハ、真下七兵衛一人
     より外ニ付居候者ハ無之由申候と也、此弥三郎生得もきとう(没義道カ)者ニて武勇一遍の男ニ而候ひしと也
         考ニ一説、是季寛永十五年有馬陳之節四十五歳、大坂夏陳廿六歳、と是を以考れはわつか十一歳かと云々、誤也、今年十五歳なり
      

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