津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録に見る関ヶ原(2)

2013-03-05 09:56:16 | 歴史

一、敵方毛利秀元并長曽我部土佐・長束大蔵其外各三万計にて雨宮山江陳取儀ニ付、忠興君・加藤嘉明長範松 長範松より南宮山迄壱里ほと有之 の塚
  の近所へ物見ニ御出候て人数押上ヶ候、以後山の下足懸り能候かと御乗廻り被成候へ共、足懸り悪敷候間、山より俄に人数下り兼可申と忠興君被仰
  候、此時歩御小姓大槻才次 後才兵衛吉住半四郎弐人被召連候
      御年譜、九月十日比伊勢より毛利秀元以下来て南宮山に陳取ニ付、忠興君・嘉明物見ニ御出候とあり、或ハ秀元の着陳ハ八月廿四日の晩とも
      有之、先ツ本文ニハ月日を除き申候、何れ右之人数ハ勢州安濃津落去以後、頓而此表へ出張候而大垣へ不入、直ニ南宮山へ敵陳取と見へ申
      候、関ヶ原軍記大成ニ、敵味方壱里はかり隔て対陳あり、忠興君・福島正則・黒田長政・京極高知四人相談、此辺の地形見計のため陳所を御出
      馬の砌、武見の士卒に紛て地の利を計るためなれは、家士壱人も来るへからす旨にて、口取をも連れす御乗出候処ニ、誰云ふともなく敵兵出て
      彼四将の跡を取切たりと告けらは、四家の士卒思ひ/\に馳出る、彼四将是を見て、沙汰の限りなる者共なり、修理殿急き立帰りあの馳来る者
      を追かけへし給へと有により、高知馬を返し馳来る輩に向ひ、他家の兵士迄もあらけなく折檻せらる、高知の家人牧野久之允も馳つけしに、高
      知、それへ来るハ久之允めにてハなきか、主人の下知を違背して何事に是へハ来りたるそと怒られしに、久之允しつ/\と来、馬の口を取て云
      けるは、敵兵出て跡を取切たると云に依て、主人の危を救ふへきにための家人なれハ各馳来候ニ、子細も御尋なく、他家の家士をもうろたえた
      るかと被仰候ハ麁忽の御一言なり、と申けれは、高知理に折て詞を和け急き是より馳返り、此方の者共ハ云ニ不及、他家の面々も案堵させて倡
      ひ返れと云含め又三将に追付かる、羽柴正則は怒り強き人ニて、我等家来共も馳参たるや面目を失ふ程ニ申聞られたるかと有ニよつて、高知
      申されけるハ、各の御家来数輩馳つきたるに依て沙汰の限りなりと申うちに、家来牧野久之允と申を見咎め殊之外叱たるに、彼者更に驚かす、
      却而諫言を申たりとて、其故を物語有けれは、三人の大将右之次第を聞て、高知ハ能き人を持給ふと一同ニ御挨拶ありしと也、此故に久之允さ
      せる戦功もなかりけれ共、此一言を感し高知加恩を与へられしと云々
一、九月朔日、家康公江戸御出馬、其日ハ神奈川に御泊り、従是加藤源太郎を御使として各へ御書を被遣候、
      態以加藤源太郎申候、今月朔日至神奈川出馬申候、中納言使罷帰具ニ承候、樽井陳取尤候、今迄之御手柄共難申述存候、此上は我等親子
      御待付候而御働尤候、委細口上申含条不能具候、恐々謹言
             九月朔日                    家康
一、二日 一ニ三日、森三右衛門 一ニ三左衛門 田辺より赤坂御陳所江罷帰候、此御使ハ去ル七月宇都宮御陳取の内、上方騒動の注進御聞被成候而大坂
  へ被遣、直ニ丹後ニ参候様ニと被仰付候間、所々関所を凌き難なく上着候処、大坂御屋敷の儀は十七日の大変を聞、直ニ田辺ニ赴き候へ共、敵の
  番所厳しく城ニ入事叶はす、漸ニ手段を以忍入関東の様子申上、木付への御書ハ室津より相達、又敵の囲ミを忍出今日此所江罷帰、御籠城御堅固
  ニて毎度被得勝利候段、委細申上候、忠興君御歓被成御賞美有之、又御口上被仰含二度田辺へ被遣候
一、六日、家康公駿州島田ニ御泊り、此所より先手の諸将江又御書を被遣候
      其元被入御念儀難申尽候、殊ニ先書如申入、岐阜之城早速被乗崩候事、御手柄無申計候、我等今日嶋田ニ罷着候、中納言定而十日時分ニ
      は其元迄可参と存候、猶期面談之節万事可申承候、恐々謹言
             九月六日                    家康

         関ヶ原軍記大成ニ、家康公九月三日相州小田原ニ御止宿、此所より又御味方の諸将へ御書をあたへ給、七日遠州中泉ニ御止り、此駅よ
         り又諸将へ御書をあたへらるると云々、右いつれも御書案ハ無之、参河後風土記ニ、忠興君を初御先手の大将達、銘々の使者嶋田にて
         家康公御出馬ニ参り合、岐阜落城の次第注進仕、家康公彼使者をハ壱人完(宛)被召出、其手々々の軍の様子御直ニ被聞召御感之由ニ
         て、御袷・白銀等被為拝領候と云々、考ニ、此儀実も聞へ候得共、島田といふ事いふかし、落城注進の使者ニハいかにも遅着也、子細可
         有か、一書ニ、九月三日四日比大垣城水攻にすへき由、西尾豊後守被申候ニ付、則豊後守承候而水を拒上ヶ已ニ町口迄水揚り候時、江
         戸よりの御使に村越茂助赤坂ニ着而被申候ハ、水攻の事暫時御待候へし、大垣落城の跡ニ内府御上り被成候而ハ御威勢も無之候間、急
         キ御出馬被成候様可申上との趣ニて、水攻之事止候と云々、此説もいふかし 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする