一、御鉄炮九拾挺ハ御自分、又九拾挺ハ番方
イ番方
但百廿挺之内三十挺ハ豊後魚住市正小頭上村孫三ニ添被遣、相残九十挺の頭三人ハ西郡大炊・白杉少助・水嶋源助也、源助岐阜ニ而
討死故、十五挺分ヶて中路新兵衛・住江小右衛門ニ御預ヶ被成候、此時迄ハ三十挺之内ニ小頭弐人有之、是も鉄炮をかたげし也、装束
も替りなし、豊前ニ而ハ外ニ小頭二人有、是ハ鉄炮をかたげす、但五十挺の内ニ弓十張有
考ニ、右ニ有之番方九十挺の鉄炮は能相わかり候、御自分九十挺と有之ハ左之御側筒、三拾挺も此内なるか、残六十挺の組合せ
分り不申候、又上村か先祖書ニ、上村孫三ハ丹後ニ而御中小姓被召出、豊前ニて御知行弐百石被下、其子甚五右衛門ニ跡目被下、
御郡奉行役勤居候処、忠利君之御意ニ不叶御暇被下候、有馬御陳之節武功有之、先知被返下と御日記ニ在と云々、孫三を此所ニ
小頭と有ハ添頭の様ニ見江申候、いつれも追而可考、右上村孫三ハ今の武七郎孫三・当喜角右衛門等か祖也
一、御側筒三十挺
此頭加々山少右衛門・牧新五御馬ニ引付て歩行也、田中吉政の勢敵ニ被追立候時、忠興君御側筒の者ハ膝台、御弓の者ハす引して折
敷、御側ニ居候ひしハ沢村才八・入江五郎作・津田夕雨・入江平内等也
一、御備二備 御人数二千弐百程也 一ニ四千ニ不足ト有
先備ハ田辺衆荒木左助・中路次郎左衛門、与十郎殿御旗本ハ御馬廻りの衆、御舎弟玄蕃殿但御自身ハ先備へ御出被成也、御人数被立
様ハ御自身御乗廻し、御立候時もあり御気ニ不向時ハ加々山少右衛門・牧新五ニ被仰付候也
当夏会津陳御用意の為御帰国の時、丹波の宅河原ニ御宿被成、其夜の御咄に、大将ハ相撲の行司人と心得候へはよし、と米田助右衛門・加々
山少右衛門・牧新五ニ被仰候か、去ル八月清須より美濃路へ河越の時も岐阜江御働の時も、先へ御乗先より玄蕃殿介右衛門ニ御下知被成候、
今度の合戦にも御人数より先江御乗被成、玄蕃殿江御下知被成候也
赤坂ニ而福島氏へ人数いか程御つれ候と御尋被成候ヘハ、四千と御答候、其後玄蕃殿へ被仰候ハ、夫程ハ有間敷、子細ハ此方一備と正則一
備と見くらへ候ニ対々候、然らば三千程可有と被仰候、福島丹波組の山川惣右衛門後ニ被召置候ニ案のことく千宛三備之由噺申候、福嶋の備頭
一ハ小(尾)関石見、二ハ福島丹波、三ハ長尾隼人 一ニ村上彦右衛門 なり
加藤氏身体九万石、人数八百計列られ候留主を無心許思ひ、人を多く残されし也
赤坂ニ而玄蕃殿物前に押へきか、武者押におすへきかとお尋有し御使の様子牧新五申上候ヘハ、間ニ及ふ事か、物前ニ押ひてハと被仰候、武者
押の時ハ昇か先、物押の時ハ鉄炮か先なり、忠興君備の立られ様を本多中務大輔御覧有之、今日の強敵ハ越中殿人数ニ而受とめんと被仰候也
田中氏石田勢ニ立られて忠興君の前を退れ候を、乗違て乗込給ひけるハたゝ見苦しきとてハ懸らせ給ハす、治部少輔か後備の嶋津か喰とめんと
兼而御用心有けるに、島津か陳迄いろめきたる故ニ懸りたると被仰候也 一ニ島津かせめ来る故ニ掛りたると被仰し也と有
関原落去の時嘉明も一所ニ而黒田長政被申候ハ、大坂より瀬田の橋を焼落さは如何すへきと有れは、忠興君、瀬田より左へ/\と一里計ゆけは
大石と云所有、それより宇治・田原へ掛り大和路より攻め上るへし、肥前守は北国より山崎へ掛り、住吉へ働き両方より引はさミて討へし、大坂歯
ごたへするならば安芸へ働、毛利家の妻子共を取り、此方の妻子と可被替と被仰候
惣而忠興君ハ信長以来の御人持、福島・加藤ハ太閤の御取立ニ而場数少き故にや、岐阜・関原ニ而も万の評議忠興君ニて一決したりと也
関原ニて黒田甲州被申候ハ、門跡を頼一揆を起させ可申と有ケレは、越中殿と御談合可被成とて忠興君江右之通被仰候ヘハ、今少御待可被成
候、後の為ニと御申上候由、遥後京の吉田ニ被成御座候時、板倉周防守数寄に御出候而御尋ニハ、関ヶ原陳の時、越中殿有無之事を不被仰唯
合戦被成度と度々被仰候由、江戸衆不審仕たるとの御物語候ヘハ、三齋君御笑被成、治部少輔ハ筆先かきゝ候て、日数あれは筆の先ニ而調略
仕候、武辺の儀ハ腸の内迄能存候、合戦初り候ハゝ此方勝可申と存候故、合戦を初たしと申候、別の事ニてハ無御座候と被仰候となり
(了)