巳の刻より取合ひ始り未の刻ニ勝敗わかり、当手ニ討取首数百三十七、生捕十七人、討捨ニしたハ数を知らす、惣而敵の死亡弐万八千余人 一ニ三万 五千弐百七十余とあり 味方討死三千七百余人、創を蒙る者許幾(ココバ=沢山)なり、御家中ニも有吉与太郎を初手負数多有之候 討死手負名前追考可
仕候 扨 敵の陳所或ハ柵の前ニて討取たる首を功名とし、其場をこへて討取りたるをハ追討ニ定られ候と也、斯て敵一人もなく逃去、忠興君を初各内
府の御床几所ニ至り、御勝軍を御祝し候ヘハ家康公仰ニ、我等手をおろして致したる合戦ニ而も無之、偏ニ各の精力を以て本意ニ任せ候との御挨拶
なり、此時本多中務大輔、今日御先手諸将の御働き何れも無比類段御披露あり、又諸将ハ、中務大輔今日人数の繰廻し、兼て承及ひしニも増り候と御
申上候ヘハ、忠勝、某の差向ひたる敵は殊之外虚弱ニ候ひしと被申候也、忠興君ハ以前之約ニ任せ、黒田甲斐守働の様子、近習の者見届候段被仰
上候ヘハ、左様ニ可有之候、貴殿働之様子も甲斐守被申感入候との御諚あり
一書、黒田氏ハ秀秋の備より内府様の御方へ越被申、忠興君御働の様体委細被仰上、御帰候道ニ而忠興君へ御逢被成、先程の様子内府へ一
々申上候、拙者のも御申候へと有、忠興君も其心得候由被仰候と云々
此時諸将の中より御凱歌(カチドキ)御執行可然よし被申上候ヘハ内府公の仰に、場中ニての合戦ハ何時もかく有へき事案の内ニ候、然れ共各証人とし
て大坂ニ被差置たる妻子の安否不聞届内ニは不致安堵候、近日上方ニて妻子を引き渡し、其上にて凱歌を揚へしとの御意を承り、各感涙を催し、忝儀
と御申上候と也、さて筑前中納言秀秋を初裏切いたされ候面々、各御本陳ニ被出朽木河内守元綱 入道の後卜齋 も被参候、忠興君赤坂御在陳の内
安田九左衛門を被遣、家康公ニ忠節有之候様ニとの儀、懇々被仰越候得共、蜂払ふて寄せ付られさりしか、脇坂と同前ニ返り忠をして、此時忠興君ニ
向ひ小手招せられしをねめ付給ひしかは、こそ/\と逃込れしと也
関原軍記大成ニ云、十五日の夜ニ入て元綱ひそかに忠興君の営ニ来り、某上方に与して内府の御咎め遁れ難し、去なから脇坂と一手ニ成り少
の心繰をも顕し候へは、いかにしても御機嫌を直し給れと有ニより、然らは御本陳ニいさなひ陳謝すへしと被申けれハ、元綱甚悦喜して忠興の跡
ニつき御本営ニ伺公せらる、越中守御幕内ニ参られけれ共、御夜食被聞召ニよつていまた其理りなかりしを、元綱幕の外より小声ニ成て忠興を催
促有ニより、今度朽木河内守事御敵をなし申、今更後悔身ニせまりたりとて、某を頼み色々陳謝申よしを演説せられける内に、元綱御幕を這ひ入
てひたすら御宥免有へしと被申けれハ、家康公笑ひ給ひ、其方なとハ小身なれは草の靡 (ナビキ)きといふものにて、敵をせられしも大罪にハあら
す、本領安堵を申付へしと仰けれは、河内守難有御恩徳なりと申して御前を退出せられると云々
三河風土記ニ、家康公岡山ニ御着陳のとき、脇坂中務大輔安治・小川土佐守祐忠・朽木河内守利綱三人、藤堂高虎を頼内通被仕候と云々
考ニ、右元綱と両人ニ而利綱は伝写之誤なるにや、武林伝等ニハ元信と有
実検事終りて、家康公ハ晩景ニ至り大谷吉隆か藤川の台ニ掛置たる小屋ニ入らせ給ひ、井伊・本田(ママ)等は今洲ニ陳をすへ、諸将も近辺小や取あり
考ニ関東軍記大成ニ、内府公ハ九月十六日正宝寺山を御出馬ありて、永原ニ御陳を移されしか、重て佐和山へ発向の諸将を御議定有と云々
藤川の台より正宝寺山ニ御移の事十五日か十六日か、尚重て可考