津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

貞亮院どの

2013-03-12 11:21:05 | 徒然

 昨日図書館に出向いて、ある資料を上妻文庫からコピー、ふとつづく記事を見ると「貞亮院」の文字が目に飛び込んできた。
霊雲院云々とありどうやら宣紀の側室の一人らしい。こちらもコピーしようと思ったら財布を忘れていて、小銭もきれてアウト・・・ちょっと興味ある資料だったのだがあきらめて帰宅。
帰って調べてみると貞亮院とは、側室・與幾のことであった 宣紀には正室はいない。しかし21名の子女を為している(下表)のだが、與幾は二男二女を為したがすべて夭折している。気の毒なことではある。父親・小田野太郎左衛門についての記述もあり、改めて出かけずばなるまい。(今日は休館日)

         ※小田野太郎左衛門女 與幾(ヨノ) 
            1 男子・竹之助(夭折・三歳) 
            3 女子・亀(夭折・六歳) 
            5 女子・春、名世(夭折・五歳)
            6 男子・萬次郎(夭折・一歳)


        ※鳥井氏女 際 
            2 女子・蔵(折・六歳)
            4 男子・八三郎(夭折・六歳)
             8 女子・富(夭折・三歳)
           10 宗孝(七代)   
           12 禰々、喜和(宗対馬守義如室) 
           14 照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)
           21 男子・龍五郎(家老・木村半平豊持養子・夭折三歳)
        ※姓氏不詳 
            7 女子・村(夭折・三歳)
        ※安野氏女 民 
            9 女子・勝(夭折・三歳) 
           11 八代、花(松平讃岐守頼恭室) 
           17 衛世、悦(長岡助右衛門是福室) 
           19 津與(小笠原備前長軌室)
           20 興彭(長岡図書興行・養子)
        ※岩瀬氏女 利加 
           13 重賢(八代) 
           15 豊、常、岑(織田山城守信舊室) 
           18 幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
        ※友成氏女 佐衛 
           16 紀休 

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綿考輯録に見る関ヶ原(8)

2013-03-12 07:23:12 | 歴史

 与十郎孝之主も下知を加へて進ミ給 一ニ能討て首を得給ふと有長岡好重も同く忠興君の近仕せられ軍功有、忠興君御自身鑓を合給ひ、諸勢をいさめ士卒
 を下知して馳めくられ、敵の馬武者と御太刀打被成候 一ニ敵二人討捨被成候といふ沢村才八御傍を不離相働く、如此烈しき戦ひなる故、有吉与太郎米田
 与七
を初各粉骨して高名する者数多なり、松井新太郎ハ岐阜ニ而痛手負ひたるか、いまた癒さる故其身ハ戦場へ不出、家士松井紀伊を陳代として
 士卒を出し相働、惣而御家中の諸士・歩足軽・又者・中間迄も手ニ合申候 首注文左ニ出す すへて関東方の諸将勇を震ふて戦はれ、敵方にも今日を限りと
 働く者多く、勝負いまた不分処ニ、松尾山の麓ニ而筑前中納言秀秋裏切の合戦始り候而ハ、彼表の関東勢殊ニ競を増、其外諸将一同鬨を発し、猶烈し
 くもミ立られ候間敵次第々々ニ弱り、戸田武蔵守・平塚因幡守・大谷刑部少輔等の勇將追々討れ、味方の諸勢増々いさんて勇をふるふ、家康公の御馬
 所ハ野上村の西南桃配とて高陽の段地なる故、戦場之大概諸手の甲乙も被成御覧、敵軍敗北ニ及ふといへとも、御籏本ハ堂々として備をくつろけす、
 終に秀家・三成・行長等の将思ひ/\に逃散候処、羽柴義弘は旗本の勢を以差向ひたる敵を追払ひ、諸勢の後殿して手痛く働かるゝ時、味方少ひるみ
 たるに、当手ニて鯛瀬善助烈しく働き頸を取、其身も痛手を蒙る、沼田小兵衛馬を乗込馬をかけみたし、薩摩にて名を得たる河上四郎兵衛を小兵衛手
 ニ生捕り、其外各追討ニすゝみ薩摩勢を討取、大将義弘も既ニ討死せんとし給ふを、舎弟中務太輔豊久を初家士多数義死を遂る、其間ニ伊吹山の方
 へ引退る、下野守殿・井伊直政等猶も追かけ給ふ所ニ、直政鉄炮ニ中り落馬あるにより、義弘虎口を遁れ案内者を得て、土岐多羅の山ニ懸つて退き申
 され候也
     大坂ニ至り、船ニ乗帰国あり、此時忠興君ニ使者を以て身上の儀を頼まる故ニ、忠興君後ニ是を執成給ひ、其外あつかひ有之、本領案堵也、依
     之川上四郎兵衛を沼田方より薩州江返し遣すへき旨ニ而則差返し候処、義弘より謝礼として 一ニ河上四郎兵衛より 延元ニ波平の脇差并種子
     島鉄炮・木線火縄百一荷二種使者を以て被差越候、其後脇差ハ小兵衛延将代ニ細川若狭守殿へ進上、種子嶋ハ今以所持仕候由なり
         清正記ニ、如水・清正等薩摩へ可働とて、肥後と薩摩の境いつミと云所迄押詰、其旨家康公へ注進ニ及ふ、嶋津は細川父子を頼み、家康
         公ニ内通あるに依て御免被成候条、人数早々打入らるへき旨申来と云々

 忠興君も追討ニ五六町程追かけられ候処ニ、黒田氏跡より越中殿越中殿と呼懸、先程大勢の中へ下知をなして乗込給ひ、御自身の御働御人数の懸ら
 せ様、勇々敷御有様見届候、其段内府へ可申上候、われらかせきをも御覧候ハゝ被仰上被下候へと御申候、忠興君御答ニ、我等の働しかと無之候、
 貴殿の御かせきをも見受不申と被仰候時、沢村才八申上候ハ、是より四五町程跡ニ小キ森の所ニ敵味方三四千程 一ニ三四十つゝ 立合居候ニ、一番
 ニ馬を乗込、敵を追崩したる武者ふり見事ニ候か、只今御立物を見候ヘハ甲州様ニて御座候と申けれは、黒田氏一段能被見候、其分少も無相違由被
 仰候
     考ニ関東軍記大成ニ、此事を難したる尚古か説有、然共沢村大学か覚書ニも記し、御家の旧記ニ相違無之候、但大学ハ始終忠興君の御側を不
     離と有、又黒田殿も合戦始るまてハ御同所ニ御座候と見江申候、然ニ敵中ニ御乗込候時、立物ハわかり候へ共長政と云事ハ不存、後ニ立物ニ
     而存当候との事、少いふかしく候
 忠興君左候ハゝ、我等の小姓見届候段可申上由御挨拶有之内ニ、金森出雲守可重・戸川肥後守達庵・岡田将監義因等追々に御越候、いつれも手ニ
 御逢候と見へけり、夫より黒田氏ハ中納言秀秋の方へ被参候由ニて御別れ候、忠興君ハ猶も敵をしたひ玉、藤川の辺迄追懸け給ふ所ニ、向の山ニ引
 揚たる敵の勢一かたまり見へけれは、若立直す事もやと思召、人数を御集被成、敵に対し北向に備を御立堅め被成候、此時才八ハ勿論御小姓は入江
 五郎作金森半助樹下右衛門牧長三郎森新十郎なり
     或人云、働の甲乙ハ有之候得共、何れふりあしからさるハ、日比御傍ニて御咄を承心懸ふかき故ニや、此時あひに人数を御立堅め候大将外ニ
     なかりしと也
         一書ニ、黒田甲州而ニ合んとや被思けん、馳通り給しかは、忠興君御覧被成、甲斐守何方へと御申候ヘハ、あれニと云捨て乗通られしを、
         あれ所ニてハ有まし、敵は崩れたれ共、向の山の黒ミハ敵ニてハなきか、もり返す事も可有ニ人数を集めハせすしてと有けれは、実もとや
         思はれけん、取て返されしなりと云々、いふかし 

  

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