「手討達之扣」と云うものが残されている。宝暦六年(1756)から文化五年(1808)までの間、事件の数は52件に及んでいる。
この数がはたして多いのか少ないのか判断しかねるが、上記文書の緒言には、「夫武士之朋輩打果下人を打揆候事不珍事ニて当前之儀なり」と記す。
続けて「是恥辱を受何分難差忍■其侭に穏便ニいたし置かたけれハ不得止事と云へし」ある。つまり士席以上の者は軽輩以下町人百姓などを「討捨」にしてよいとするものである。差し控えには及ばずながら、その理由を届け出ることは当然であり、中には吟味の上の処分を受けることもあったようだ。
中には特異な例がある。鎌田小平太なる人物は二度の手討事件を起こしている。
■宝暦十二年七月十二日
曽我卯右衛門組鎌田杢之助嫡子鎌田小平太儀去ル十日於在宅所合志郡小原村百姓源左衛門と申者忰松之衛と申者と口論いたし
御日柄之儀心附候得共甚タ致悪口候ニ付其場を難差通討放申候 依之杢之助小平太同道出府如何程ニ相心得可申哉と相達候ニ
付先在宿有之候様ニと相達其段此夕御用番と相伺置候處右在宿ニ不及由今日御奉行所ゟ申来候事
七月十二日 小平太儀當年拾三歳松之衛と申者當年拾歳ニ相成候由
■天明七年六月松野亀右衛門組
覚
鎌田小平太儀去月廿八日西郡治次弟西郡十平次江意趣御座候ニ付十平次在宅江罷越意趣次第申聞打果申候 其節妨ニ相成候
間十平次忰西郡逸次并妻共ニ打果申候 右之趣一類中より申聞今日晝時より切腹仕候 此段私ゟ御達仕候 以上
六月朔日 秋山孫太郎
猿木勘左衛門殿
成田源右衛門殿
宝暦の事件は偶発的なものであったのだろうが、十三歳の男子が十歳の子を手打ちにしたという事に驚かされる。よほどの悪口雑言を浴びせられたのであろう。
天明の事件は意趣をもって相手方に乗込み、本人ならずとも息子夫婦までも手討にしたというから確信犯的犯行であるが、さすがに切腹を為している。
先祖附を拝見していないが、何らかの処分が遺族に対してもたらされたのではなかと推察される。家は明治に至っている。