一、十四日午之刻はかりに赤坂ニ御着、岡山を本陳と被成、御先手の大将衆ハ未明より五町三町程青野ヶ原の方江人数押出陳を居られ候
一ニ、大垣の方ニ張出しと有、又一ニ、家康公ハ福島氏の本の陳屋へ御入、忠興君の本の陳屋ハ金森法印の陳屋となると有、又岡山ハ赤坂
の駅の南に当り、三町四方の陽山なれは、兼てより何れも談合にて爰に御本陳を定、柵を構へ四方ニ張陳すと、明徳親民記にあり
敵方には内府御着陳の沙汰とり/\にて、その虚実を窺ひ知るへき為ニ未の刻さかりに人数を出し、株瀬川にて中村・有馬・堀尾等の衆、敵と取合あ
り
関ヶ原軍記大成ニ、異本ニ此古戦を赤坂口・池尻口、笠木堤・福田縄手・笠縫堤抔まち/\に書付ありと云々、考ニ、地名夫々寄所有と見へた
り、呂久川・佐渡か川なとあるも、株瀬川の筋にて渉り所の村名ニよりて云也、又株瀬を久世川ともあり、くひ川とあるハあやまりか、呂久の渡り
ハさわたより半里ほと川上也、呂久村ハ合渡より赤坂江之道筋、さわたり村ハ尾越・須の股より大垣への道筋也、木曽路と中山道との違なり
一、同日の晩景におよひ、忠興君を初諸将召ニ応し、御本陳ニおゐてこう攻戦の利害御相談被成候ニ、大将達一同に、内府御着陳之上ハ面々人数を出
し大垣の城を攻落すへしと有、家康公仰られ候ハ、各御評議尤ニ候へ共、秀家を初諸将大勢にて楯籠との事なれハ、速ニ其功なかるへし、何とそ場
中におひき出し一戦に討取可申、しかれハ敵を引掛るため陳所を移しかえらるへきかと被仰、各領掌有て御退出被成候、惣軍へ被触渡候而ハ、夜ハ
すてに亥の刻なり
御年譜、御本陳ニ諸将御揃之時、明日合戦相極候、其心得有へしと被仰出、各奉得其意暫御咄之内、中村式部少輔衆御前へ被召出、明日御
合戦可被成間、大垣の押へ御頼可被成旨、一氏の弟彦左衛門 一ニ彦右衛門 一栄ニ被仰渡候処、家老藪内匠正照(後・細川家臣)幕の外ニ居候
か幕打あけて、彦左衛門待可申候、太閤の御代先手仕式部少輔と世間ニ被知候も、皆共かせき申故ニて御座候、一氏果候へ共家来之面々罷
在候うへハ、先手可被仰付候、といかにも目高に急度申上候、此時白糸の鎧を着し候か今日の軍に手負けると見へ、血の付たるか目に立てよ
かりしと也、扨色々御挨拶御座候ヘハ、主なしにて候間いか様にも不苦と申す、忠興君心元なく思召井伊直政へ被仰候ハ、主なし無紛候、兎角
御相付被成可然と御挨拶有之候と云々、考ニ、十五日之手配ニハ、中村手大垣の押へ勢の内ニ入たる記も有、又南宮山の敵を押の内ニ入たる
も諸記まち/\なり、いつれ井伊直政と一手ニてハ無之と見へ申候、尚可考、且又右御備定之事、十四日之夕、明日弥御合戦可被成とて夫々
被仰渡候と記したるもあり、又敵大柿(ママ)を出候以後、御先手所々の押へなと御使番を以被仰渡とも有之、是非分明ならす、惣て十五日之事、
十四日之宵まてハ決定、合戦可有とも知れ不申候、其故は敵十二三万 一ニ十万三千余 の人数にて大略ハ大柿の城ニ在、栗原山・南宮山ニ
陳をかまへ要害をしめて扣へ居候に、軽々敷関ヶ原江御人数出さるへき様これなく、すでに敵を偽引出すため、陳所をうつしかへらるへしと被
仰渡けると有之、敵場中へ出張候ハゝ御合戦可被成とて、御備の手賦夫々に被仰渡、大将各退出候処、陳替有之迄もなく、敵はや大柿を出関
ヶ原の方へ押出し候間、御使番を以被仰渡たるなるへし、同書ニ、右御本陳より御帰りが長範松へ何も御上り南宮山の様体御覧候処に、山より
壱人走下り申ニ付、何者ぞ捕へて参候へとて、各御内衆一両人完(宛)被出候、忠興君よりは吉住半四郎、大槻才次被遣候処ニ、吉川より黒田
氏へ使に参り候と申ニ付、長政の陳所へ召連参申候、使者口上ニハ毛利身体前々の通被仰調被下候ハゝ、明日手切の合戦仕御目ニ可懸と
なり、依之長政赤坂へ御出にて、右之儀被仰上候ヘハ、被申越ことくに候ハゝ、毛利身望のことく可被仰付との御意にて、其通り返事有之候と
云々、考に、吉川内通之事家康公赤坂へ御着前より段々往返も有之たると記し候も多く候、左候ハゝ、此使ハ合戦有之候ハゝ、弥裏切可仕と
の事を被申越たるか、偖又(サテマタ)長範松江上り南宮山の様子御覧被成とあれは、いまた日暮さる前なるへし、午の刻はかり岡山に内府公御
着、其様子敵方にも知れ、猶虚実を計へきため、大垣より人数を出し株瀬川にて合戦有、其後諸将御本陳にて御評議、其御帰りに南宮山の様
子御目計被成候、彼是九月の短日いかゝ可有之や、但是より前に敵南宮山ニ陳取候節、加藤氏と被仰談、物見に御出被成候とあるを混して
此所へ出し有之か、諸書可見合也