津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

伊東豊雄氏、プリツカー賞受賞

2013-03-18 11:35:11 | 建築

                                         新建築 2013年3月号

                     

              建築界のノーベル賞ともいわれる「プリツカー賞」の2013年の受賞者に、伊東豊雄氏が選出されたことをメディアが報じいる。
              東日本大震災後、建築家の苦悩は大きい。そんな中で氏は積極的に復興支援に携わっておられる。
          
              最新号の「新建築」 に氏の作品が掲載されていて、これを拝見しご活躍ぶりに感じ入っていた中での朗報である。
              氏は八代市の未来の森ミュージアム以来熊本との関わりも深く、、くまもとアートポリスのコミッショナー(三代目)も務めておられる。
              そんな関係で、復興事業に熊本から木材等の提供がなされたりしている。
              大変喜ばしいことで、お祝い申し上げる。
         

 

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綿考輯録に見る関ヶ原(12)

2013-03-18 07:28:59 | 歴史

  扨関ヶ原町ニ而高田屋九兵衛と申者、御合戦の次第を先祖以来伝来せし由ニて、絵図をも所持致候間、則古戦場ニ伴ひ所々見廻りて色々噺を承候
  に、実もと思ふこと多く、また誤り伝へたりと聞ゆるも有之候、則九兵衛絵図に添て持伝へ覚書之内ニ左之通有之候
  高田屋九兵衛か覚書之内ニ 関原町ニ而古戦之事情詳く書紀いたし候を所持
一、家康公御本陳野上村之西、南山麓桃配に御陳を居られ、御籏関原の本町口迄、御籏本は右桃配より段々拾弐町之内陳とり、関原西海道より南之方
  大関村之関屋明神之辺迄、福島左衛門大夫・京極修理大夫・蜂須賀阿波守・藤堂佐渡守乾之方ニ向て陳を取、関原海道より北合川山口より八幡宮
  森迄、金森法印・細川越中守・加藤左馬介・田中兵部少輔右合革川山口より三丁程の山手丸山といふ所ニ、黒田甲斐守・加藤左衛門尉・竹中丹後
  守、此所より松尾山西方筑前中納言之備迄道法三十弐町有
  右丸山狼煙場也
  右北山東茨谷と云所、徳川下野守殿・井伊民部
  関原町口喜多ニ当ル也
  牧田道十九女池野、本多中務少輔
  野上村東、生駒讃岐守・寺沢志摩守・山内対馬守・織田有楽・有馬玄蕃頭・駿河・遠江之兵段々ニ備を立る
  毛井・野上之間壱里塚、浅野左京大夫・池田三左衛門、赤坂御勝山御留守居、堀尾信濃守・筒井伊賀守
  大垣城押へ長松村・一柳監物
  曽根村、津軽左京亮・西尾豊後守・水野六左衛門・中村式部・松平丹後守
  南宮山之押へ、金屋・川原・徳永法印・市橋下総守・横井伊織・同作左衛門・同孫左衛門

      西国方備之次第
一、石田治部少輔三成、北国海道之方小関村之内篠尾と云所、青竹を以柵を二重結、其内ニ鉄炮・長柄を伏たり、柵より前に秀頼公物頭六十三騎陳列
  す 小池村、島津兵庫頭義弘・嶋津中務少輔、大関村之北天満山、小西摂津守行長、同南之方山 但し天満山ニ総て有り 備前中納言秀家陳す
  南下村、大谷大学・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・平塚因幡守・同庄兵衛 藤下村ハ中山道海道筋関の藤川の川岸在所也、九州・五畿内勢四万余、山中村之
  北宮之上に、大谷刑部少輔吉隆之下知を受る
  松尾山、筑前中納言秀秋、右之山続海道之南今須之宿辺迄、脇坂中務子息・同淡路守・小川土佐守・同左馬介・朽木河内守・赤座久兵衛、大垣之城
  本丸福原右馬助、二の丸熊谷内蔵助・垣見和泉守・木村惣左衛門、三の丸高橋九郎・秋月長門守・相良宮内少輔、都合壱万三千七百六拾騎籠り居る
  石田三成家臣島左近・同新吉・蒲生備中守、関原之北国海道之左右ニ備を立る、嶋津・小西備前、備之前也
  九月十五日朝、小雨ふり霧深して漸々巳の刻計に天も晴る、然ニ福嶋の手より物見として沢井左衛門・祖父江法斎・森勘解由右三人出す、三成の手
  より物見として乾次郎兵衛・津田小三郎と注ニ行逢ふ
  石田三成より藤下村江軍使を立る、大谷大学・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・平塚因幡守・同庄兵衛、関原北国海道之方馳来る、福島の備より
  鉄炮打出す、軍初る、西国方秀家・三成・義広・義家・行長、互ニ掛て鉄炮打、長柄を揃て突合、細川忠興・井伊直政・加藤嘉明・黒田長政・織田有楽・
  同長孝等、兵を卒して馳合、是北国海道之左右八幡宮の後也
  中仙道之道より南、東国方藤堂佐渡守・京極高政、蜂須賀阿波守至鎮・本多忠勝・宇喜多・嶋津之勢ニ互ニ掛て先を争ふ、石川伊豆守貞政真崎先
  に進て鎗を合首を捕る、依て壱番首御感状被下并猪子内匠、古田大膳・舟越五郎右衛門・佐久間久左衛門・同源六、各先ニ進て武勇を顕す
  海道之中筋、金森法印・同出雲守・田中吉政・福嶋父子、石田・小西・嶋津・宇喜多之勢と互ニ死を軽んし戦、此時午の上刻なり、御馬廻伊丹兵庫・
  河村助右衛門・奥平藤兵衛・村越兵庫壱番ニ乗入討死、小坂助六・尼子善十郎・稲熊市左衛門・兼松又四郎・坪内喜太郎・長男惣兵衛・二男嘉兵衛・
  三男佐左衛門・四男太郎左衛門・内谷利左衛門已下働有
  松尾山・金吾秀秋数を大関村之南へ静に下し、大谷・平塚備之右之方江掛る、大谷も秀秋の別心兼而察したるゆへに、関原表の軍に構はす静りかへ
  つて押て居けり、秀秋の先手一戦に利を失ひ、家臣田中勘左衛門・布目新左衛門其外一騎当千之手之者暦(歴)々討死、手負多く出来る、然ニ脇坂
  中務・小川土佐守・朽木河内守・赤座久兵衛昨十四日藤堂を以御味方ニ可参と内通す、依之高虎合図之籏を揚る、右四人共大谷吉隆之備に横合よ
  り討掛、藤堂・京極・山内同時に掛る、山中村之多勢是に依て敗軍、大谷吉隆切腹す、家頼(来)三浦喜大夫大谷か首を捕て吉隆の甥祐玄と云沙門
  に其首を渡す、袈裟ニ包て土中ニ納る、山中表敗軍しける故、石田・小西・宇喜多等の後より軍敗れて、即時敗軍なり 中略
  関東御合戦場へ出る人数、東国方惣人数七万五千三百弐拾余、西国方惣人数九万三千余

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