是よりハ裏の方に忠興君御自筆
■ 岐阜城乗申時与十郎傍ニ居申候者
田辺衆
伴喜左衛門
日置流弓の上手也、吉田出雲守以来三代の孫雪荷の高弟なり、幽齋君の附録ニ詳出申候
同
伊勢伝五
鞍うちなり、仙齋か養子聟なれハ家を譲る、尊氏将軍の時伊勢伊勢守貞継と云人、大坪道禅より鞍ツクル事を受伝て伊勢氏子孫代々作の
鞍なと云也、鞍作る事巧なるよし軍記等ニ見へたり
同
岡本専三郎 一ニ小三郎
同
大塚源次
田辺籠城の内ニ有之大塚源次とは別人歟、再考
同
大塚小三郎
右の外城攻粉骨之面々は加々山庄右衛門・市村四郎三郎政勝 荒木山城弟にて荒木彦大夫親なり、市村半右衛門養子とせしゆえ名字変るなり、家系に荒木四郎右衛門と云者
山城弟にて玄蕃殿ニ仕、岐阜・関ヶ原武功有、荒木彦大夫か親と見へたり、市村か養子ニ成たる事ミへす、別人か尚可考 ・沼田小兵衛・中嶋左近 中嶋備中子、晋州にてもよかりし也、豊前に而
千五百石・中路新兵衛 中路加右衛門子、一柳伊豆守山中の城にて討死の時此ものとも働にて敵ニ首を取れす、豊前にて千五百石、新兵衛豊前にて病死、其子加右衛門ニ五百石被下候、加右衛
門嫡子新右衛門江御知行弐百石、二男加兵衛ニ百五十石、三男勘太夫ニ肥後ニて百五十石被下候、今の加右衛門一午等か祖也・岡村半右衛門・和田庄五郎重治 始は大和大納言秀長
の小姓なりしを御もらい被成、文禄二年弐百石被下、関原事之後忠隆君の御供仕加賀に罷越、高野山にて御剃髪の後筑前中納言殿ニ居、秀秋御卒去の後浪人いたし候処、慶長十六年帰参、五百石拝
領なり、御番頭被仰付、其砌高見権右衛門と改、高見ハ母方の名字なり、阿部兄弟仕者仰付たるハ右権右衛門子の権右衛門なり、当高見宇源太祖なり ・中村源内 御弓頭七百石、四半の者也 ・
篠山与四郎・工上三太夫・窪田源兵衛・金森半助・市村半右衛門・井戸正三郎直弘 後号新右衛門、公儀御直参ニ成千五百石、駿府御城代相勤 ・加々山半右衛
門・中津海藤三郎 五郎右衛門兄なり、三右衛門子なり、若年より玄蕃殿へ奉公、忠興君より親三右衛門へ呼戻候様ニ被仰付候故、玄蕃殿手前立退罷越候処直ニ御知行三百五拾石被下候、後
三右衛門と改、今の安之允祖なり ・入江五郎作等なり、右之加々山庄右衛門つよく働、刀を打折たるを御覧被成、御指替の御陳刀を被下 戦場にて歟不分明 、又金森
半助は前かど御児小姓にて候、御気ニ違ひ外に居候ひしかとも此時被召出、牧新五か赤き羽織を半助に被下、新五には御召の黒羽織を被下候