信長の城 (岩波新書) | |
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扨忠興君の軽き馬武者を懸て見給へと被仰けれは、福嶋氏騎馬四五十懸らせられ候、最早敵方ニ備を立、端々突て懸らんとせしかは引取にくに候
哉、森の方へなたれ候へ共、霧深き故異議なかりし也、其時加々山少右衛門ハ後れはせニ乗付、羽柴越中守内加々山少右衛門と名乗懸、真先ニ
馬を入れ鑓を突折、又敵の鑓を取て働き夫も突折しか、引取時ニ太刀打して首一ツ討取候
考ニ、此時迄ハいまた合戦不初物見ニ被遣砌の事也、但関東軍記大成ニ、清須侍従ハ今日も先陳として関ヶ原の町を南向ニ押出る、備中中
納言ハ諸将より引さかつて大柿を出馬せられしか、秀家の後隊を羽柴正則の先手十文字ニ取切て備を立る、秀家の軍士是を驚き、あるハ朝
霧深して敵の多少も計難し、今少し見きるへしと云も有、又あるハ此辺に脇道もや有とひしめくも有、稲葉助之允是を聞て、談合評議も事にこ
そよれ、主人は先手へ通り給ひ、其中ニ敵あれはとてあやふミ恐るゝ事やある、爰を突破て通るへし、といひもあへす乗出す、不破内匠稲葉に
先を越れしとかけ出けるを見て、残輩鑓先を並へあたかも竜の飛か如く一文字に突かゝる、正則の甲長加藤庄之助馬上より下知する処ニ、稲
葉助之允馬をかけよせ唯一鑓に突落シ其首を取らす突捨て、敵の中へ乗込味方の士卒を引まとひかすてもおはす馳通る、此時正則の隊長福
嶋丹波手の物を励し首十余級討取て道筋ニ其首をかくると云々、此事強手考候ハゝ、本文と合記シ候共甲斐なかるましきや、庄右衛門働ハ此
砌の事なるへし、朝霧にて物色さたかならす、諸手ともニ敵合近くなりてハ不意の事も有之たるか
忠興君先より御乗戻り被成、御人数円く御乗廻候而、伊吹山江続たる山際ニ御押又先へ御乗付 一ニ黒田殿備ニと有 、合戦始る迄は加藤・黒田・金
森等御一所ニ而敵味方の位御見合被成候、此時後藤又兵衛鉄炮廿挺計為持山鼻江出て打せけるか、筒数少してきけ悪し、今少有ならハ打立ん物を
と申けれは、黒田氏も山鼻へ行て立帰り、越中殿爰を請取者あらハ我等行て惣勝をせんものをと被申候、忠興君、左あらハ爰は我等請取へし行て見
給へ、と被仰候ニ返答も無之候、忠興君、左様なる事ハ此方もとく知てゐる、惣勝しても手ニ合事ならぬ、と座興のことく被仰候也、斯て漸に霧も薄くな
り敵を見渡し候ヘハ、関原表ニハ宇喜多秀家石原峠を後にあてゝ巽に向ひ山の尾崎ニ陳をすへ、其左の方ニ小西・嶋津をはしめ上方の諸将段々に備
を立、石田三成ハ小関山に本陳をすへ、先手ハ北国海道小関野江張出し、小池村の前に柵木を二重ニ立、先手六千人柵の前に陳列をなす 是より関原
本通りへ八町、小池村より筑前中納言の陣所松尾山まて三十町とあり 、秀家の右の方にハ河尻肥前守・石川備後守・有馬修理・戸田武蔵守・平塚稲葉守其外彼是一面ニ
備へ、其右ニは大谷刑部父子・木下山城守・朽木河内守・小川土佐守・脇坂中務少輔・赤座久兵衛等各松尾山の麓に引廻して備を設け、松尾山ハ筑
前中納言秀秋、南宮山・栗原山ハ毛利秀元・吉川広家・完(宍)戸備前守・安國寺・長束・長曽我部・鍋島信濃守等の陳所也、南は南宮山より北ハ旦吹
の麓迄、家々の籏馬印等霧の晴間ニ見へわたり、総勢十二万八千六百余人と也
一書、十一万八千六百八十余人と有、又三河後風土記ニ、大垣にての着到十八万四千九百七十人なり、毛利家・長曽我部等合て廿一万五千
余人と云々、家忠日記云、大谷吉継か嫡子同大学助二千余騎を卒して垂井口に向て左の山下ニ陳をす、其弟大谷山城守一千騎を右の山下に
陳す、父の吉継六百騎本陳をさらす屯すと云々、同書ニ、石田・島津関の藤川を越て小関の巽に向て陳す、備前黄門及ひ小西ハ石原峠を下て
谷の小川を渉て関原北の野に軍を出して、西北の山を背ニ当て是も又辰巳に向て屯す、大谷・平塚ハ関の藤川を前に当て岸より下に陳す、朝
霧暗して敵味方の陳分明ならす、巳の刻に及て霧漸く晴明かに物の色あらはると云々
後風土記ニハ、朝霧晴て敵味方明ニ見へ渡り、御本陳も無程関原ニ至り備を立定めたまふ、左の御先手福嶋、右の御先手忠興君・加藤相備
と有、
武徳安民記云、三成ハ丑の刻松の尾山江至りけれは、金吾秀秋風気なりとて対面せす、仍て老臣に軍事を談し夫より策を揚て、小関村の南
天魔山と云丸山ニ至り、後に池を負ひ地の利能故此所に屯し、人夫を出し竹木を伐採、陳所の前ニ柵二重構へ其間に鉄炮を伏たり、籏の紋
は大一と云文字なり 或ハ団扇九曜の籏ニて諸卒金の吹貫の差物なりとも云へり 、小西ハ伊吹の麓に陳し、浮田(宇喜多)ハ鷹尾山ニ屯し、其外逆徒の諸軍
北ハ江州伊吹山を限り、合川の前後小関むら・小池村・玉村・藤川村・関藤川村・本道ハ不破・藤下・山中・伊益まて雲霞の如く充満せりと云々
同書、福嶋は不破の関明神の森を後ニ当、弓・鉄炮段々に組合せ、山中の宿の海道を立切、左ニハ有馬玄蕃豊氏、中筋ハ細川・加藤を先隊
として黒田長政・筒井定次・一柳直盛等一列たり、右の手先伊吹山の麓ニハ田中吉政父子・金森法印父子と云々、同書ニ或曰、大小名并御
譜代の部将旗本の健士及ひ犬山の降人彼是総て味方の到着雑兵七万五千三百余也、又岡山の御留守ハ堀尾忠氏、菩提の城ハ竹中重門
是を守る、又兇徒の到着ハ藤川の台・南宮山・松尾山其外所々に張陳せる軍兵、且大垣の城警衛の族等彼是総て雑兵十万三千余と云々
味方の大将達一勢々々列を正し、間可にも福島正則ハ一の先手として関ヶ原に至、大関村に人数を立乾ニ向て陳列を設け、忠興君・加藤嘉明等ハ
海道の北ニ出、并田中吉政・金森法印なとも共に八幡宮の森の辺より合川の方に押出し、黒田・竹中等ハ合川を渡て丸山と云所ニ取登 此所合図の狼
煙場也 、是等ハいつれも小関の敵を討取らんと也、正則の左の方にハ藤堂・蜂須賀・京極・有馬・山内・生駒・寺沢・織田有楽等松尾山の麓迄押詰、
関ヶ原茨谷ハ下野守殿御陳所ニて井伊兵部少輔備を設け、十九女池の辺ハ本多忠勝陳列し、其外小身の諸将もより/\に人数を立、少しつゝせり
合ハ間々有之様子ニ候へとも、塩合をはかりて猥ニかゝらす、敵方ハ家康公南宮山を後になし軍をすゝめ給は々、前後より馳懸り打取奉るへき為ニ
備を堅めて戦を不挑と也、此砌忠興君手廻計にて物見に御出候処ニ、田中吉政跡より乗付、越中殿合戦初可申と有れは早く候と被仰、是非初候半
と被申ニ付、銘々の人数なれは其方次第と被仰けるか、御心中ハ越中か留たる故掛らさりし、と後に表裏を云へきとの事ならんにいらさる事を云しと
思召候となり、田中氏の返答に合戦の習ひ勝事もあり負る事もあり、一番合戦は某初候後日の証拠に届申候となり、忠興君必定の勝軍に虚空もなき
事を申さる、と被仰候へ共不聞入乗戻らる、供之士宮部市兵衛壱人参候而、越中様の仰のことく眼前御勝の合戦ニて御座候と申せは、田中氏乗返し
宮部を叱る/\人数の所へ乗付らる
考ニ三河風土記ニ、田中吉政ハ一の先手ニはあらす候へ共、別ニ上意を蒙御先手に加るを以、今日是非一番ニ合戦を初んと被存と云々
左も可有か、家定日記にハ、田中吉政出馬ニ先達而発向すへきの旨釣命を奉て、軍以前より関原に至て陳を張ると有