一、大垣の城中にも軍議様々なる中に、終ニは石田か申旨にまかせ関ヶ原に忍従を出すに極り、栗原山ニ大篝を焼せ、其火を目当に丑の刻はかりに惣
勢大柿を押出す、味方の物見是を見付、追々御本陳へ注進被申候ヘハ、家康公御悦ひ被成、もはや陳替ニ不及、惣軍夜中より関ヶ原表に発向有へ
し、明朝払暁に御馬を被出こと/\く敵を討取へしと被仰候、御先手は福島正則・忠興君・加藤嘉明をはしめ、黒田・藤堂・田中・織田・京極・蜂須賀・
寺沢・生駒・津田・松平下野守殿・井伊・本多其外小身の面々、外様・御譜代衆彼是未明より人数を出し、南宮山・大柿等の手当丈夫に被仰付、御旗
本ともに惣勢七万五千三百三十人なり
考ニ一書、東軍都合弐拾壱万五千余人と有はいふかし、又関ヶ原集ニ、秀秋より内府公江使を以、敵ハ今夜退候、人数を可被出候、我等もか
け落し不残討可申となり、内府公、さあらば人数を可被出とて一番福島・井伊、二番黒田・一柳・堀尾、三番細川・京極なとは秀家の手に向は
ると云々、あやしき説なり、又関ヶ原軍記大成に、十五日御備定、一番福島・藤堂・田中・生駒・戸川・坂崎・桑山・大野、二番細川・黒田・加藤・
織田・竹中・羽柴定次・松倉、三番下野守殿・井伊・本多・関・加藤直泰此外小身之輩誰々とあり
一、九月十五日未明ニ 一ニ辰刻と有、いふかし 御小屋の外より御陳替と見へ候と申候、忠興君合点不行と被仰、去れ共加藤氏昇色めき候と申内に、福島氏
より御出候へと御使ニ付其儘御出被成候、此旨御側衆より牧・加々山 江知せ候故両人より玄蕃殿江申遣、其外へも申触何れも小屋の前ニ出居候処
ニ、北の方より玄蕃々々と高声に御呼掛御乗付被成、御人数小屋前ニ御立被成候、小屋場より十四五間 一ニ四五十間 程先ニ小塚有之、其所ニ御側の鉄
炮召連(牧)新五可参候、(加々山)少右衛門ハ供ニ参候へと被仰付、扨玄蕃殿へ被仰候は先手の大将か砕たと見ゆる 一ニ酔たと見ゆる 福島陳へ乗付
候処ニ小手招被致候ニ付、ヶ様之時咡き(ササヤキ)候ヘハ下々の気違ふものニ候、高々と被申候へ、と云ける時、吉川より黒田方へ申越候ハ、昨日は
御味方可仕と申候得共、今夜治部少大垣より関原江廻り各へ仕懸申候、昨日之首尾ニ而候間御敵ハ仕間敷候、御味方ハ不成と申越候由正則被申
ニ付、ざつと済候、仕懸てする合戦を請てするハ只取たるものなり、急き小屋の前ニ人数被立候へと申つると御咄被成候而、又先手へ御越被成、御人
数もやがて垂井の宿の方江押申候
一書、福島家より石田城を出たり、急き御むかひ有れと相告る、扨ハとて辰刻打立給ふ、士卒皆営の前に出る、忠興君北の脇より馬を乗立て、
玄蕃々々と高く呼て是に命し、士卒を押出させ給ふと云々、考ニいふかし
先手の諸将各関ヶ原表江人数を進められ候か、霧深して武色わかり不申候、忠興君・加藤嘉明御相談被成候は、南宮山・栗原山ニ備へたる安芸宰
相吉川家ハ、内府に内通有といへとも其心中難計、殊ニ長束・安國寺等彼山ニ在り、かく霧深く前後を不分ニ、麁忽ニ人数をすゝめ過、大敵前後より襲
ひ懸らは、討死せんも難計、家康公御旗本をよせらるゝ様ニ可申入とて 安民記ニハ関原ノ町口ニて御三人此御相談被成候とあり、沢村才八と嘉明の家人田辺彦兵衛
に右之旨被仰含候、両人申候ハ、はや戦之時至り候ニ後陳ニ立帰り申さむ事、御使とハ乍申本意なき次第ニ候と申上けれは、忠興君両人に御向ひ
被成、内府御出馬なき内ニ討死せんも詮なき事也、然は此時の使者ハ何よりも忠節ならんと被仰候間、両人無是非参候処ニ、垂井の辺ニ而井伊兵部
少輔ニ参り候、両将の御所存を述けれは、直政の答ニ被仰越通御尤ニ候、御口上ハ我等請取候上ハ、急而本陳ニ注進候へし、本多中務と某御跡を
詰申由被申入よと有之、御本陳への使者被申付内、家康公の御籏先見申ニ付、沢村・田辺陳所より飛帰り其段申上候
考ニ安民記・親民記等ニ、沢村・田辺此時井伊直政ニ行逢候ハ、下野守殿を伴ひ手廻計にて先手ニ趣かれ候時とあり、左も可有か
是より前、黒田氏より後藤又兵衛を物見ニ被出候か、忠興君・福嶋氏・黒田氏なと御座候処に立帰て、敵ハ敗軍と見へ候と申上る、いや敗軍ニ而は有
間敷と忠興君被仰候、黒田氏、彼ハ後藤又兵衛と申て見損する者にてハ無之と御申候間、何故敗軍とハ見候と御尋被成候、又兵衛答て、馬武者の
内に雑人原か入交て臈次(ラッシ)なく候間敗軍と存候と申上けれハ、面白く候、福嶋氏人数を以て襲ふて見給へと被仰、正則尤とて三備の内一備を懸
らせらる、忠興君何と見ても敗軍とハ見へす、引揚させ給へと被仰けれハ呼戻し被申、早々引取候、乱たる人数を輒く引取事日比の号令能故也、と忠
興君御褒美被成候、此折加々山少右衛門を武見ニ被遣、福嶋氏よりも壱人被出乗連参候処ニ、敵近く成て武者一騎逢候ニ付、夫なるハ敵にてはな
きかと詞を懸けれは、眼を開候へと答て共々味方の方へ乗連参候、少右衛門兎角此者ハ敵なるへしと思ひ、近くより誰の衆ニて候やと問候得共、左
云れて云へきか目を開候へ、と云うて知らぬ体ニ而乗連来りしか、地下の所に水溜りたるを静に乗渡り、味方の人数を見渡て其儘一さんに乗抜候也
少右衛門其後の咄ニ、右の武者ハ何と云たる者ニ候や、其朝ハ霧深く人の面も見へわかす、差物なともわかり兼候得共、黒具足ニ黒羽織を
着て扨々能き武者振也しと也、数年の後駿河御普請の戻りに、関原通り佐藤安右衛門同道ニ而戦場を見歩き、右之咄いたし候ヘハ安右衛門
具ニ聞、扨々不思議なる事故、某ハ大谷刑部少所ニ居申候、只今御噺の武者ハ刑部少内ニ而寺田久左衛門 青地久左衛門先祖也 と申て口をきゝ
たる者也、武見ニ出候時の咄を承りたるニ少も相違無之候、右久左衛門ハ其後京極修理殿ニ而、知行千石ニ鉄炮三十挺預り居候由語候得
は、少右衛門も扨ニそと申候となり