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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑花錦語集の内容(2・12~14)

2013-03-19 14:17:14 | memo
     雑花錦語集(巻二)
1 放生会御能之節願書之事
2 同時開口之事
3 下河原相樸願書之事 享保9年
4 新羅大明神畧縁記之事
5 義経都落山伏名の事
6 深草元政法師草庵腰張書付之事
7 菱形八幡宮縁起之事
8 水戸光国公御壁書之事
9 肥後言葉小舞之事
10 新鸞上人夢想語
11 金山寺額文之事
12 薪寺懸物之事
13 綱利公御書面之事
14 一休和尚手跡之事
15 寛延年中碁会之事
16 揚弓矢割之事
17 陸奥ニ異国船着問答之事
18 傾城懴悔之事
19 井伊掃部頭殿遺書之事
20 正木之葛之事
21 通矢之事
22 挙之事
23 鉄炮之事
24 菊池川舟初之事
25 から超先生制詞之條々
26 七種之事
27 十五日粥之事
28 亥猪餅之事
29 五月十八日廻状之事
30 詠豆腐之事
31 一休水鏡之事
32 武家四天王之事
33 数量異名之事
34 文体はんし物之事
35 蓬莱石記之事
36 俵五助之事
37 大久保出羽守殿より申来覚書
38 碁所江之御書出
39 梁田鬼九郎感状之事
40 兵法三機誡之事
41 関東八州之事
42 魚勢という事
43 相剋不剋年之事
44 菖蒲草之事
45 座頭合言葉之事
46 合言葉之事
47 大工合言葉之事
48 虚無僧合言葉之事
49 揚弓之言葉
50 人之厄之年之事
51 謡文言之事
52 替り起請文之事
53 町離手下之事
54 能州岩村長寿百姓之事
55 南京船頭趙樹三物語之事
56 元禄14年京都雷之事
57 高岡八幡宮雷之事
58 安藝国蓬莱山之事
59 毎日三十日異名之事
60 廣南船頭尊天一物語之事
61 日蝕之薬之事
62 日輪寺畧縁記
63 同寺山札之事
64 座頭官位之事
65 鎌倉谷七郷名之事
66 西田門弥細工之事
67 御巡見国分之事
68 舞之座之事
69 異国道法之事
70 熊本より隣国道法
71 一字異名
72 楠正成居間之壁書
73 秀吉公壁書之事
74 疑年号之事
75 諸所風景題之事

     雑花錦語集(巻十二)

1 研覃居上己御詩 3
2 御詩 (研覃居)
3 関羽御讃 (研覃居)
4 松井祐之寄松祝奇之御詩 (研覃居)
5 重賢公御詩 4
6 泰厳寺梅峯詩
7 研覃居御詩 2
8 水安直詩
9 水業図詩
     雑花錦語集(巻十三)
1 左太彦宮之事
2 葵之御紋之伝
3 新田家之四家之事
4 公家之庶流七名字之事
5 尾張国海部郡門真庄津嶋社之事
6 奴野城之事
7 大橋家伝之事
8 桃園社之事
9 多田社之事
10 壷井霊社之事
11 肥後風土記之事
12 楠正行筆記之事
13 風囈文集序 (孤舟)
14 隈本賦
15 憎煙草賦之事
16 雷棒賦
17 名月序之事
18 送惟迭東行序之事
19 鶯覗裳記
20 送誠来辞之事
21 五郎左衛門伝
22 権道山伏辯
23 免狸辯
24 鼻箴之事
25 文台銘之事
26 堂号移文之事
27 成瀬豊後守事
28 狩野系図之事
29 江戸町人数之事
30 油屋藤四郎事
31 朝比奈百助殿事
32 延享4年御改長寿之事
33 松平内膳殿事
34 肥前諌早百姓訴状之事
35 壺碑之事并歌
36 丹羽殿浪人
37 山田幸七妻敵討候事

     雑花錦語集(巻十四)
1 菊池武朝言上状之事
2 井上勘兵衛佐敷働之事
3 三社詫宣之事
4 越後国地震之事
5 八の宮
6 ある人心さしをのふる文之事
7 八代府三十三所之事
8 日本人数之事
9 御鹿狩之事
10 松平筑前守様御家中之事
11 芋生村政平事
12 本阿弥光悦文章之事
13 人の尻の事をいひし左を之事
14 筑波久留米領騒動之事
15 日本左衛門事
16 八代佐敷洪水之事 宝暦5年
17 安藤殿一巻之事
18 金銀通用之事
19 溝口殿御咄之事
20 張礼之呪之事
21 三階菱付ル家々之事
22 播麿国姫路騒動之事
23 小俣平右衛門殿一巻之事
24 加賀国騒動之事
25 嶋原城之事
26 薩摩国平田靭負事
27 桶屋カセ之事 

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御恵贈御礼--「細川幽齋と舞鶴」

2013-03-19 09:27:06 | 書籍・読書

 畏友寺井正文氏から御恵贈たまわった。氏は田邊城籠城衆の寺井道運・吉右衛門父子のご子孫であり、芦屋にお住まいでありながらも、深く舞鶴に想いを寄せられいろいろ活動されている。いつもながらの御厚情に厚く御礼申し上げる。
この本は熊本においてもメディアで報道され衆知の事であり、多くの人が購入されたことと思われる。
舞鶴市が刊行された「ふるさと学習」のためのものと聞き及ぶが、平易ながらその内容の充実ぶりが際立った佳書である。 

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時期を同じくして私は、京都新聞社が平成四年五月に発刊した「勝龍寺城今昔物語」を、オークションで手に入れた。 

又、先にご紹介した コレクション日本歌人選「細川幽齋」 も揃い幽齋公づくしになった感がある。

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綿考輯録に見る関ヶ原(13)

2013-03-19 08:46:40 | 歴史

   武徳安民記ニ、神君ハ辰上刻に及て赤坂を御進発あり、路次ニ窪嶋孫兵衛馳来て、秀秋の籏色いまた敵とも味方とも知レさる由演説す、神君彼圧
   へ勢藤堂・京極か手より迎鉄炮を放つへきよし命せらると云々中略
   神君ハ毛井辺ニ押来らせ給ふ処ニ、路次ニ御先手の諸将より段々首級を捧上覧に入る、就中藤堂新七良勝彼手の一番首を得て、高虎か従士高橋
   金右衛門ニ持せ献する処ニ甚是を感せられ、夫より毛井の灰配と云山原迄御出張、是より御先隊まて十五町有、時に鉄炮頭渡辺半蔵守綱諌て曰、
   此陳地早くして諸隊の働見へす、丘に移され可ならん、神君此旨ニ従はせ給ひ御本陳高きに遷されてより、味方の動静剛臆顕然たり、御馬廻は野上
   関原の間ニ魚鱗鶴翼に備を設く、御籏は関原町の端まて十二町進め、西江孫太郎忠貞是を立る、此時逆徒敗績に及ひし故御籏を又九町進め、石
   川長門守康通堂々として屯を設く、賊徒既に敗北すといへとも御譜代の諸将等列座を乱すへからす、且諸手之士卒長追すへからさるよし下知すへき
   旨釣命有しかは、御使番の輩ハ五文字の差物をさし、四方へ馳巡り是を伝ふと云々

   家忠日記云、既に大軍始、御味方の魁将福島正則西に向て敵に馳合、羽柴忠興・加藤嘉明・黒田長政等兵を発し、敵味方混雑して相戦 下略、同
   書、大神君野上と関ヶ原の間ニ御陳を備らると有、

   明徳民記曰、辰の上刻赤坂を御立有て、御先江籏七本一幅懸壱丈六尺麾壱丈、御家の御旗白地ニ葵御紋三ツ付らる、当度会津御首途の時より
   是を止られ白旗を用ひ給ふといえり

関原軍記大成、内府公岡山御出馬之内
   家康公ハ九月十五日の寅の刻に岡山を御出馬有て、野上村の西海道の南桃配 岡山より弐里半 といふ所に御馬を立られ、七本骨の扇の御まとゐ
   御側にあり、朝霧立こめて細雨しきりに降けるか、しはらく有て天晴しかは又御馬をすゝめ給ひ、関ヶ原の町口を東より西の方へ十二町挽出して御陳
   をすへらる、此時服部半蔵守綱地形の利害を説て、御本陳を移かへらるへしと申により、又三町御馬を進めらる、御旗本の先手酒井左衛門尉家次、
   十二本の御旗は御本陳より九町はかり御先手ニ進み、諸将は定られしことく左右にわかれて兵をすゝむ 下略

関原軍記大成、秀家・正則合戦之内
   かゝりけれは敵味方備を立よせて鉄炮迫合初りけるか、内府公の御旗本ニ貝の音聞へしかは、関東勢一同に関をつくつて馳かゝる、中にも下野守
   殿ハ羽柴義弘の手江馳向ひしか、義弘の軍士松浦三郎兵衛をかけよせて、一太刀切給ひけるに、三郎兵衛受なかして忠吉の左の臂手のはつれを
   きる、忠吉朝臣事ともせす馬上より組て落給ひしを、忠吉朝臣の家人加藤孫太郎松浦を引ふせて其首をとる、下野守殿立あかり給ひ又敵兵と太刀
   打せらる、近臣四人・中間壱人なれは甚危く見へ給ひけるに、井伊兵部少輔手の者を下知して突かゝる、木俣右京・鈴木平兵衛 後号石見 属兵を励し
   て力戦す、木俣か手におひて尾畑勘兵衛母羅武者を突伏て首をとる、脇五右衛門・岡本半助傍輩にこへて能働く、向山外記をはしめ撃死する者若
   干なり、此時松倉豊後守も井伊直政か手につきて自身の高名あり、忠吉朝臣此時馬にはなれ給ひしを、直政か家人江坂何某馳つきて馬を奉る、本
   多中務大輔二男内記も嶋津・小西と戦ひけるか、内記自身太刀打して敵二人馬上より切て落す、其家人吉原新助・長野四郎・青山三四郎等首をと
   る、山内主水・永田覚左衛門・加藤忠左衛門粉骨の働あり、忠勝ハ秀忠公より給りたる三国驢馬とて九寸ある馬に乗けるか、其馬深手を負けれは
   其家人梶金平おのれか馬に忠勝をのせたり、又桑山左衛門佐も本多忠勝か手につきて自身の高名あり、是より先に石川伊豆守貞政石田か物見服
   部新左衛門か首をとる、彼服部新左衛門ハ関東の御家人服部仲か従弟也、すなはち家康公実検ありて是を今日一番首に定めらる、福島正則の兵
   士渡辺彦助 後号弥兵衛 、石川豆州より先ニ首を撃取けれとも、主人正則の実検に備へける其間に、石川豆州高名して御旗本へ参りしゆへに、渡辺
   彦助か高名は一番首にならすとかや、先陳羽柴正則以下の関東勢ハ道筋を西向に秀家の手へ打てかゝる、備前中納言ハ弐万余人を五段ニ立かゝ
   り来る敵を待たれしか、太鞁の丸の旗をさしかさし、先一万弐千人鬨をつくつておとしかくる、関東勢相かゝりに馳あわせ一足もひかしと相戦ふ、正則
     の家人仙石但馬一番ニ首をとる、此外正則の強兵我劣らしと戦ひけれ共、備前勢ニかけ立られて四五町はかり引退く、星野又八返し合せ薙刀にて
   敵二三ひとかけ倒し、其場におゐて撃死す、其外正則の家人死をいたすもの二三十人に及へり、此時秀家郎従に高名する者許多なり、正則は銀の
   芭蕉の揚葉付たる忍旗を打立、二陳にひかへられしか、先手崩れけるを甚怒つて馬を乗廻し、今日の先手にありなから臆病をあらわす者ともかな、
   かへせ/\と下知せらる、福島丹波・尾関石見・長尾隼人等属兵を励して秀家の先手を追かへす、此時秀家の太鼓の丸の旗と正則の山道の旗進
   退事、二三度におよひたりとかや下略 

  
    

コメント (2)
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