津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録に見る関ヶ原(11)

2013-03-16 07:21:47 | 歴史

 忠興君御陳所は今洲の宿二三町御上り被成、海道より左の田の中に芝原少し有之所ニ駒立の小屋掛に御一宿有、偖(サテ)申の刻より雨頻りに降て飯
 を炊く事不叶処ニ、御本陳より軍使馳せ廻り、諸勢米を食するに於てハよく洗ひてほとひたるを食すへし、然らされは腹中ニあたるもの也との御下知あり
 けれは、諸人家康公の御心遣ひを難有存けると也、忠興君ハ御弁当の飯を一杓子宛其日手ニ合たる者ニ被下候、御自身も手ニ合被成候間甚御機嫌
 好御座候、夜ニ入て牧新五か者漸ニ火を焼居候処ニ藤堂佐渡守下人来て、主人佐渡守今日何も喰不被申候、せめて湯ひとつ給させ申度と申を、新五
 より忠興君江申上候へは、何そ無之やと御尋させ候て、菓子袋より柿を三つ取出し御送被成候、又黒田長政より使来て、後藤又兵衛手を負候へ共金瘡
 医師不召連候、貴様被召連候ハゝ御借可被下由被申越候故、津田夕雨を被遣候、且又沢村才八御感ニ預り、猩々緋の御羽織被為拝領候、其故は、才
 八岐阜ニ而数ヶ年手を負候故、今日は御傍ニ居候へと被仰付前後御側を不離、件之御使ニも参り、忠興君馬武者と切結はれ候時も御脇を詰、其後敵
 敗て諸大将一騎かけニ追討の時も、黒田氏を初何れも馬取中間迄一人も無之候ニ、忠興君ニハ、初中後才八附従候而御詞を違へ不申候故ニ候と也、
 牧長三郎も赤キ御羽織拝領、番指物被召上候

     鯛瀬(善助)か家記ニ、関ヶ原御陳ニ深手負申候善助小屋の前を三齋様被遊御通候節、御立寄御懇詞有之候、又右御陳中ニ御先を馳候節、福
     嶋殿より御軍法を破候段御届有之、切腹をも可被仰付御様子ニ候処、与一郎様御断ニよつて被差免候、段々手ニ合申候者ニ候間、御取立被成
     度被思召候へ共、御軍法被破者之儀故御取立不被遊段御直之御意も御座候由、善助一生之手疵七十七ヶ所有之候と云々 考ニ、御軍法破り候
     との事ハ、八月河越の時の事ならんか、飯田次郎右衛門先祖飯田西忍も手負候と家記ニ在、偖又右所々ニ出せる面々之外手負・討死・高名且
     御褒美の輩等いまた委敷考得不申候、惣而此関ヶ原合戦の次第を考ニ、一戦ニ天下分目の勝負累世未曾有の大合戦也、然れは其始末実録と
     称するもの多く粉雑にして一様ならす、彼ハ是を評して実とし、是ハ彼を評して虚とするの類、家々の記録何れを的中のミと仕難く候、其故ハ、敵
     味方五千三千乃至五万三万の軍勢を以取合の始末も、進退・勝負あさやかなるハ、たとひ其場ニ不差出ものにても後日ニ人ニ問尋、時勢を察し
     て記し候はゝ、大方ハ相違も有間敷か、然ニ此闘ハ敵味方廿万計り、南宮山陳取の外ハ大略残りなく一同ニ取くさり、殊ニ信長・秀吉以来度々の
     合戦ニ馴、進退琢磨の猛将多く、名をおしむ勇士等互ニ晴と戦を挑み、小者中間ニ至迄も強く勝負を争ふ程の事ニて、十五日巳の刻比よりせり
     合始り、大合戦と成、未の上刻程ニ勝負わかり、其間しはらくもいとまなき戟(ホコ)際也、誠ニ我手我備の内さへ自余の働さたかならされは、他の
     手の事ハ後日伝聞の物語、或ハ自他の疎密・依怙の判談等を以記したるも可有之、諸書区々にて何れを実とも定難き事数々也、尤家康公より
     一手々々ニ被差出候御目付も有之、又ハ人のかせきのミ心を付る族も可有之候へ共、強ニ其所にかゝはり不申たゝ御家の事はかりを先ツ拾ひ
     揚申候、扨当手の御人数は石田と計り戦ひ候様ニ心得たるも悪かるへく候、忠興君・福嶋・加藤の三家ハ今日も一の御先手ニ而、其外の大将衆
     も備の次第ハありといへとも、皆同しく家康公の為ニハ御先手也、敵方ニハ秀家・三成・嶋津・小西・大谷等を初地形を謀つて備を立敷、待軍の
     格にて一同ニ扣、扨味方の大将達ハ一手々々に列を立、思ひ/\ニ差向ひたる敵にかけ合せ、中ニも塩合を能はかり、其図ニ中りたるハ功を
     得、かゝり塩悪しきか又本よりの勝劣にや、一旦敵ニ被追立たるも有之と見へ申候、忠興君の御内ニ而も鯛瀬善助沼田小兵衛働なと嶋津手と
     の取組也、しかし是は嶋津氏退口ニての事なるへし、有吉与太郎か討たる敵も大谷か手の者なり、必竟ハ石田か先手田中氏の人数を追立候ニ
     忠興君横合より御突かゝり被追返候砌よりハ、大形諸手共ニ取くさり、時を移し御働被成候、右石田か先てを御追立候ニて、直ニ敵惣敗軍の様ニ
     記したるも有之候へとも、左様ニ而ハ無之候、忠興君御自身の御働、与一郎様・玄蕃殿・与五郎殿を初め御家士等の働を考候而も、一応の事と
     は見へ不申候、たとひ石田か先手ハ此一戦計ニ而も、自余の敵兵数多なれは直ニ余の手もかゝられ、石田か先手も今日を限と強く働候由、諸書
     ニも記し有之事ニ候、此時の様子、最初は石田勢田中氏を突立一二町も追かけ候ニて、味方戦地を敵ニ取られ候を、忠興君鑓ニて突崩し敵を
     追立、芝居を御取返し被成候と云ものニて、未勝軍ニては無之一旦の事也、此砌石田か手ニかゝられ候味方の大将、黒田氏・田中氏・加藤氏を
     初め其外も有之、福嶋氏を初め備前中納言の手ニ討て懸るも有、下野守殿・井伊・本多等の被差向候手は、島津・小西抔と相見へ、藤堂高虎・
     織田有楽・同河内守等ハ大谷・平塚・戸田等の敵と戦ひ、其外の諸将其場々々ニ応し、秀家の手ニかゝり候も有之、嶋津・石田・大谷ニかゝりた
     るも有之、銘々ハ我一人之様ニ心得相働といへ共、双方の先手十万計一同ニ入乱れての戦ゆへ、当を幸ニ勝負を遂、後ハ互ニ備も乱れて、一
     家内にても離れ/\ニも相挊(ハタラク)、大将も自身鑓合太刀討等ニて、中々了簡よりも烈しき事と可心得也、然は敵を追立進む味方も有り、或
     ハ敵に被追立も有之、いまだ勝負分れさる所ニ、筑前中納言の裏切の戦ひ初り候てハ、味方一涯勢ひ強く成候得共、敵も早速ニ敗せす、大谷か
     手ニて一ト先ツ秀秋を切崩し候を、尚又関東の諸将上方の降将等左右より懸り候ニて、秀秋の手も立直し敵の大将歴々討死、味方は弥気ニの
     りて、無程惣敗軍ニ及ひ関東方の諸将敵を被追討、忠興君も至藤川の辺迄追討被成候由、右敵の勢引色になる砌よりハ別而諸手入交り、敗軍
     におよひ散々に落去候故、味方の大将も思ひ/\ニ被追討候なるへし、如是なる時ハ御家の記録と粗符合仕候、土地・年月・将士の姓名・人数
     の多少等ハ、参考之上誤を改むへくも候へとも、合戦の様子強而考候ヘハ自己の作説ニ堕り易く候、肝要ハ大切の御戦功を好事の作説ニ覆は
     れ、或ハ纔(ワズカ)の覚書等を以多本の実説を押妄り儀は無念の事ニ候故、此所ニ贅書いたし候、なを博く参考の上便りとも可成事ハ追加可仕
     と存、見当りたる事ハ仮ニ左ニ出し置申候、家康公関ヶ原御着之刻限、敵味方の備立等も区々ゆへ、前にも諸説を拾ひ置申候、大抵同様なるハ
     省き、関ヶ原軍記大成ニ、嶋津・小西等備の次ニ三淵大和守とあるなとの類、不快相違の事等ハ一向ニ出し不申候、又合戦諸記ニ出たる関原
     合戦の所ハ、本より偽作と相見江評判のもかゝり不申、旦江戸・大坂其外にても軍書講師なとのうちにハ、色々奇怪の説を以俗を驚かす類ひ様
     々なり、なましひニ機密実事らしく深くたくみにして、間にハ家々の誤伝なと聞伝、面白く潤色して年月時日なともよく考候ヘハ、好事の輩ハ実もと
     迷ふ人もあるへし、勿論御家の実録なとハ伺ふたる事もあるましけれハ、洩したるハことはり也、今此所ニ出し置説々も、御家ニかゝはらさるハ省
     き候間、此合戦一件の事全きニてハ無之候、  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする