津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

常山記談から「林半介」

2013-03-26 18:59:13 | 論考

                                              

 細川家家臣林家(英三家・新九郎家)が家祖とする、林才兵衛の逸話である。
私は現在林家記共云うべき文書(28ページ)の読み下しに奮闘中である。大変豪快な人物で一日に三度一番乗りをし、その都度一番首を取ったという。
(下の株瀬川云々の場面)なんとも場面/\が面白く、小説・講談の世界である。
林家の名誉のために申し上げると、その遠祖は織田信長の家老を勤めた林秀貞だとされる。半介を美濃大垣の青柳の百姓と常山記談は記しているが、
秀貞亡き後一時期帰農していたのであろう。なんとか秀貞につながる資料を見つけ出したいと思っている。 

林半介ハ美濃安八郡青柳村の百姓なりしが、石田に仕へて禄七百石使番なり、石田兵を起其の時佐和山の城中に軍兵を集め書院にて饗礼を行ひ、
吾今かゝる一大事を思ひ立運を天命に任すといへども汝たちが武勇をひとへに頼む處なり、其旨を存して軍忠あらば賞は功によるべし、其約束も印と
して酒盃を座の中に出しける時、林遥の末席より進み出て軍は臨みて一番は知らず、二番はかく申す半介としろし召れよとて、其盃をとりて飲みたり
ければ、皆にくきふるまひよといひしが、株瀬川にて一番首をとりぬ、斯くて両軍物別れする時、稲葉助之丞は金の切烈の指物にて秀家の軍士の殿し、
林は白じなへのさし物指て乗さがり殿しけるが、猶も本多忠勝が兵に向て一騎輪をかく有様、敵ありとも思ざる体なりしを、東照宮御覧じてあつぱれ不
敵者哉、武功を志す者はあの武者の草摺をいただけと仰せありけり

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綿考輯録に見る関ヶ原(19)

2013-03-26 18:29:27 | 史料

                                                                                                

       一、大御馬印   黒字ニ白き九曜但五幅四方、横広く見ゆるとて上下の方壱寸五分程御延被成候
           一書ニ、差人はかち助と六助也、かち介(ママ)差て少しよろつき候を六助追取て突立し故、御意により加々山庄右衛門名字をもらひ
           加々山六助と云し也、志方半兵衛親也と云々、志方か家記にハ、志方六助か父ハ志方右衛門尉繁広と申候而、播州志方の城主也
           神吉民部少輔弟ニ而初ハ櫛橋左京進と申候処、後播州印南郡在名志方と申所居城いたし志方と名乗候由、天正六年志方落城之
           時六助二歳ニ而一命を遁れ、丹波国ニ隠れ、其後丹後国長生院と申寺俗縁有之ニ十五歳迄居り候内、心繰有之段忠興君被聞召、
           十七歳 一ニ十五歳 之時被召出御知行五十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相働、中ニも於高麗深手負、御
           懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御懇意ニ而、寛永弐拾年病死、右六助
           嫡子志方半兵衛 半兵衛事大坂之所ニ詳ニ出云々 
       御馬印豊前ニ而ハ有之字也

    一、御昇     廿本絹三幅黒字ニ二引両を折懸之
           角より白く筋違ニ付、天正十年三月十九日より、右之通也、一とせ森美作守より忠興君へ御懇望ニ而昇ニ筋違を御付候、是ハ白地
           ニ黒キ筋違の由也、岐阜・関原落去し御上洛の時、御昇破れたるを三条橋ニ而京童が見て、扨も見事なる昇哉、骨を折たると見へ
           て破けると感候由、七曲りの山ニ而木の枝ニ引懸り破れたると也、扨昇の頭と云事御家ニ無之と也、関原ニ而昇の小頭諏訪孫右衛
           門・同孫七也 一ニ源七 、高麗陳の時晋州にて能かりし故、諏訪与右衛門 一ニ与左衛門 が名字を両人ニ遣候へとの御意ニ而諏訪ニ成し
           と也、御昇、豊前御入国以後ハ白地上の方ニ黒キ九曜也、島原御陳の後忠利君御昇を替させられ候時、三齋君へもか様ニ被成候
           やうニと被仰候へ共、我代の昇ニ悪敷事ハなし、其方ニハ何そ悪敷事有か、此方ニハ替ましと被仰候と也、白地ニ上ニ黒き御紋付
           たる御昇五十本有之候を、半分宛御分被成、立孝主・興孝主江御譲今以御両家伝来有之候と也

    一、御差物   銀の中くり  世ニ銀の半月と申候得共、忠興君ハ中くりと被仰候
           山鳥の尾ばつとしてくりの所を見へ隠れにて見事なりとなし、十五日合戦前より軍散する迄御差被成候、他の御大将衆は差物を大
           方人ニ御持せ候由也、或時秀忠公御差物の儀を家康公ヘ被仰上候ハ、加藤肥後守か馬藺の差物か、羽柴越中守銀の中くりの差
           物二ツの中御望ニ思召候如何可有御座やと御窺被成候ヘハ、家康公上意ニひとつハ差物なとハあやかりものニ候、肥後守もけな
           けものにて指物も能候得共、太閤の代計の競也、越中守ハ信長以来数度の事に逢候上、先年小牧表の退口殊ニ見事成し越中守
           差物可然との事ニ而、土肥大炊頭上使ニ而忠興君の御指物を被召上、後ハ御円居ニ成り銀の半月と号、大坂御陳ニも御持せ被
           成候、同時大炊殿御申候ハ、武勇をあやかるへきとの事なれは、着用之甲冑も可被差上と也、忠興君、具足ハ着古し候、新しく縅
           献候ハんと被仰、御召料之通縅立られ、其年の十二月被差上候 一説明ル正月
               考ニ、中くりの御差物被召上候ハ大坂陳以後と云説有、誤成へし 元和元年の所ニ詳出
               一書、山鳥の尾の立物をも御所望被遊候得共、引尾と申若き御大将ニハ御遠慮ニ被思召候とて不被差上と云々、又一説ニ
               ハ、一色は家ニ残し申度よし御断被仰せ上候と云々、同書ニ、御差物銀なる故、御家中ニ御免なけれは銀の道具ハせす、御
               国本ニ而後も差へきと思召けるにやと云々、又一書ニ中くりの御差物此以前牧左馬允ニ被為拝領候得共、公義江被差上候ニ
               付、以後ハ家の紋ニすへき由被仰付候と云々、又武隠叢話 武辺咄共云 曰、関原御陳の時、御先手より越中守唯一騎にて御籏
               本江被参候時、山鳥の尾の甲に銀の天衝 半月或は中くり の差物なり、遠方より見れは只其儘舞鶴の如し、家康公御覧被成、忠
               興武具の物数寄世ニ勝れて見事なり、就中甲と差物の取合一段見事なりと被仰、則天衝の差物御所望被成候ニ付、台徳公
               ニ被差上候也と云々、他よりハ天衝共申候哉、難心得候、又忠興君此時御先手より家康公の御旗本江御出被成たる事なく、
               其上国の主武前ニて唯一騎往来と云事も時分柄とハ云なから信し難き事也、又同書ニ、台徳公御所望にて細川忠興より御
               召の冑一頭被差上、則角頭巾の角の■(糸偏に包)と立たる形也、其冑を土井大炊頭利勝披露也、台徳公御意ニ入御感不斜
               則越中守も御前ニ召種々御褒美也、時ニ御冑ニねりくりのうち緒を忍の緒に付たり、忍の緒ニハ麻布のくり緒か能と聞召被及
               たるか、此うち緒か能かとの御不審也、其時越中守懐中より桐の箱を取出し、其内ニ麻布の忍の緒を入候と差上る、土肥大
               炊頭ニ向て、打緒付置候は御祝儀ニ而御座候、是ハ御肌ニ付候物故別ニ仕置候、只今御前ニて付直し申候と申上候、台徳
               公御機嫌也、此御冑を大坂御陳ニも被為召候と云々

   一、御家中番指物  鉄輪の足の如く立たる三本はご黒地ニ縫付たる金の九曜紋
           豊前ニ而は三ツしなへのはごニて長サ右同断、人持衆ハ同しなから色銘々ニかはる、御馬廻り衆・小姓組ハ三ツはごニて地黒し、
           御馬廻は一番より六番迄組々一・二・三・四・五・六と金にて押付候也、番文字忠興君御自筆之由、今以伝来仕候 

            

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雑花錦語集の内容(51~55)

2013-03-26 08:23:44 | 史料

     雑花錦語集(巻五十一)

1 檜垣寺古瓦記
2 鷓鴣之事
3 鴬之事
4 年之吉凶
5 周公八卦
6 侍隆彦庵詠甘日月和歌并序
7 三宅氏良親八月廿日和歌序
8 人のもてあそひ給ふ盆石の記
9 伏見にまかりし時の詞
10 玉くしけ
11 含悦法師にあたふる詞并歌
12 飛鳥井雅直朝信をいためる詞
13 ある人の子弟まかりしを弔詞
14 正直親族病ニ而死ル時の和の詞
15 祇園奉納百首の奥書
16 尾陽家訓
17 日光山草創畧記
18 日光山御社参被下物之覚
19 日光山御道筋御堅メ人数
20 村上源氏略系


     雑花錦語集(巻五十二)
1 新院御月次 寛文5年12月12日
2 新院御所御会始 寛文6年1月21日
3 新院御月次 寛文6年2月14日
4 新院御当座 寛文6年2月14日
5 禁裏御会始 寛文6年2月22日
6 水無瀬宮御奉納 寛文6年2月22日
7 聖廟御奉納 寛文6年2月25日
8 新院御月次 寛文6年3月14日
9 新院御月次 寛文6年4月16日
10 新院御当座 寛文6年4月14日
11 新院御月次 寛文6年5月18日
12 新院御当座 寛文6年5月18日
13 新院御月次 寛文6年6月14日
14 新院御当座 寛文6年6月14日
15 新院御月次 寛文6年7月5日
16 新院御当座 寛文6年7月5日
17 新院御月次 寛文6年8月15日
18 新院御当座 寛文6年8月15日
19 禁裏御会 寛文6年9月9日
20 禁裏御会 寛文6年9月13夜
21 新院御当座 寛文6年9月13夜
22 新院御月次 寛文6年10月14日
23 新院御当座 寛文6年10月14日
24 新院御月次 寛文6年11月21日
25 新院御当座 寛文6年11月21日

     雑花錦語集(巻五十三)

1 聖廟御法楽 寛文4年6月25日
2 新院御会始 寛文4年10月7日
3 新院御月次 寛文5年3月10日
4 新院御月次 寛文5年4月12日
5 新院御当座 寛文5年4月12日
6 新院御月次 寛文5年5月12日
7 新院御当座 寛文5年5月12日
8 新院御月次 寛文5年6月12日
9 新院御月次 寛文5年6月12日
10 悠紀主基御屏風風俗和歌
11 禁裏御会 寛文5年7月7日
12 新院御月次 寛文5年7月9日
13 新院御当座 寛文5年8月12日
14 禁裏御会 寛文5年9月9日
15 新院御月次 寛文5年9月22日
16 新院御月次 寛文5年9月22日
 

     雑花錦語集(巻五十四)
1 宇佐宮勅使
2 朝鮮之仮名
3 唐土之以呂波
4 歌仙紅葉之名目
5 岡田安房道春に問
6 大原記
7 摺小木銘并序
8 猫恋箴
9 西行上人像賛
10 入学賛
11 読仏骨表
12 座右銘
13 鬼といふ事
14 扇日時斗
15 御願堂扇子之略記
16 寺院御触之写 宝暦5年
17 三味線之事
18 追廻之下之田之事
19 東坡居士詩の事
20 江戸観世大夫勧進能之節落書
21 甲胄之事
22 鎧作之事
23 相続の次第
24 御譜代御大名江上意之事
25 加藤殿一巻被仰渡之覚
26 禁中諸公家中諸法度
27 在々より被仰渡高札 寛文8年
28 於熊本触状 寛文8年
29 南都大仏の事
30 御元服之事 家重公
31 殿中刃傷の事
32 茂林寺守鶴禅師之事
33 誨蒙近言
34 松平出羽守被仰渡之趣
35 呈軽舟雅士文
36 入洛之事
37 所司代始
38 弓執
39 唐武后製字
40 支那俗字
41 鷹之文字盡
42 琴之文字尽
43 鈴木三郎文章
44 源氏物語ははきの巻事
45 蜂のたとへの事
 

     雑花錦語集(巻五十五)

1 源氏貝和歌
2 似雲庵室出ル時の歌
3 和歌五十人一首并席
4 逍遥院実隆公百首
5 中古歌仙
6 新歌仙
7 信実染筆歌仙
8 公宴御会始 享保15年1月24日
9 御夢想天満宮御法楽 享保20年
10 当今御製 享保20年11月3日
11 御即位の節末廣扇の歌 享保20年
12 公宴御会始 元文4年
13 いつれの年か御月次之内法皇御製
14 後西院崩御の時御歌
15 霊元帝御製 享保17年8月
16 霊元帝崩御の節歌 享保17年
17 公宴御当座 寛文11年2月16日
18 名香御歌一種別名
19 武具八景和歌
20 清源院様羽箒の御歌
21 冷泉為久卿寄蕎麦切恋の歌
22 甘露降候節の御会 享保14年
23 烏丸光栄卿ニ公方様御届の御歌
24 烏丸光廣卿ふわふわの御歌
25 近衛様雨乞御歌
26 台徳院様御詠
27 日蓮上人歌
28 法然上人歌
29 密柑の歌 (井口寿適)
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