津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

武士に「もの言う」百姓たち

2013-03-24 20:30:53 | 書籍・読書
       武士に「もの言う」百姓たち: 裁判でよむ江戸時代
 
                       草思社

本の内容

江戸時代の百姓は、武士に支配されるだけの「もの言わぬ民」ではなく、家を守り、村をよくするためには果敢に訴訟をおこした。それを裁く武士も、原告・被告の百姓が納得する判決を下さなければ、支配者としての権威を保てなかった。本書では、江戸時代の訴訟・裁判を概観しつつ、信濃国の松代藩真田家領内でおきた百姓の訴訟を取り上げ、騒動の始まりから判決までの全過程をつぶさに解説。百姓と武士の意外な関係を明らかにする。

目次

第1部 江戸時代の「訴訟と裁判」とは
        江戸時代の法と裁判
        刑罰の実態
        名奉行の条件
        非合法の訴訟—越訴
        目安箱と村々の「法」
        領地をめぐる村々の争い

第2部 信濃国の松代藩真田家文書に残された百姓たちの騒動記—百姓たちが二派に分かれ激突。彼らは何を主張し、それを武士はどう裁いたか。
        名主の選挙をめぐり、義兵衛派と弥惣八派が激突
        武士による吟味と、弥惣八派の瓦解
        明るみに出る、義兵衛派の村財政私物化
        評定所での判決と、その後


 

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相撲好き綱利公

2013-03-24 13:16:05 | 徒然

 肥後細川藩主三代綱利公の相撲好きはつとに有名である。筆頭家老松井興長は痛烈な諫言の書を呈している。
次の史談会に於いて、この興長の諫書を取り上げようと思い、いろいろ調べている。

この諫書の日付は万治三年(1660)三月十一日である。綱利は七歳で父・光尚公の遺領を相続、以来江戸暮らしであるが、この年の四月末(十九歳)に熊本に初入国している。万治という年は三年の四月二十五日に改元寛文となる。その寛文元年六月二十八日、諫書を呈した興長は八十一歳で後顧に大いなる憂いを感じながら亡くなることになる。綱利の初入国の二か月後の事であるが、このとき興長は病を押して御目見を果たしている。
この諫書もどうやら病の中で数日の時間をへて書き上げられたものらしい。その内容は相撲に留まらず多岐に亘っている。

相撲司である吉田氏(吉田司家)を細川家家臣として召出したのは万治元年(?)とされるから、綱利十六歳である。よほどの相撲好きであったことはこれでも窺われる。

甲佐の神主・渡邊玄察の拾集物語( 渡邊玄察日記)に、この年の春の事(同三かのへ子の年)として、次のように記されている。

  (前略)此年の春より大力もの相撲取申候者共従公儀被遊御穿鑿被召出候人々

        一、はりがね          南郷           権太左衛門
        一、よこ車            鶴崎          半太兵衛
        一、大竹             同            蔵太左衛門
        一、ねざゝ            久住           門太兵衛
        一、内の牧            同            久太左衛門
        一、朱山             熊本新壹丁目    源太兵衛
        一、有合             同うる山町      清太兵衛
        一、こざらし           同鳥屋町       針之助
        一、からくさ           同            雲右衛門
        一、そろり            同出京町       徳太左衛門
        一、おきのかもめ       宇土           浅太左衛門
        一、八角            たかはし         三五太兵衛
        一、十八            菊池           傳右衛門
        一、小町            玉名           三郎太夫
        一、吉野川           同            三太左衛門
        一、大せひ           同            左市太夫
        一、かいのくち         同            善太兵衛
        一、うと山            宇土          六郎太夫
        一、たぐりなわ         たまな         安太左衛門
        一、たかはし          うと           一二太夫

          江戸より御やとひ被遣候御すまう取
        一、七夕
        一、ともはる
                 此両人松平出羽守様之御相撲取
        一、ふじなわ
        一、こみだれ
                 此両人は殿様江戸にて被遊御抱被遣候       

 公儀の穿鑿がどういう理由で行われたのかは窺い知れないが、慶安元年(1648)には勧進相撲の禁止令も出されているし、そのようなことを慮っての興長公の心痛があったのだろう。
もっともこの諫書は相撲のみがやり玉に挙げられているわけではない。その後の藩主も相撲好きの方が多いように見受けられる。
興長公あの世で顔をしかめてお出でだろう。 

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養子の墓

2013-03-24 09:14:48 | 徒然

 ある人がA寺に松井家の墓があると連絡をしてきた。墓誌に文禄なんぞと云う文字がみえるというからずいぶん古いもののようだが、松井家のお墓は八代の春光寺であり、理解できないでいた。後の事だが、松井家から朽木家に養子に入られた方のお墓であるらしいことが判明した。家紋も松井家の物が刻まれているという。朽木家の系図を見てみると、八代昭久が松井営之(八代)の末子であることが判明した。養子に入った男子は、養家のお墓には入れず実家に墓所を営むことがあるという。朽木昭久成る人物も養家には入らず、A寺に墓所を作り松井家代々の墓誌を作ったものと考えられる。

我が家にも一人だけお墓が見当たらない人物がある。長い間、大変不思議に思っていたが判らず終いであったのだが、よくよく調べてみると養子であった。実家である大津陣内のE家に墓所にあるのだろうか。家族とか実家とか・・・どちらを大切に考えるかという簡単な議論の外にあるようである。

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