斯て霧も晴れ武間を詰て諸手追々にせり合初り、中にも田中氏ハ以前の詞のことく人数を下知し、貝吹立一番ニ懸らせらる、加々山少右衛門御人数
をも詰させ可申やと伺候へ共、少待候へ時分を見合下知を加ふへきと被仰、田中氏の勢ハ七八町も棹の如く立并て掛りけるを忠興君御覧被成、長懸
りする程ニ見よ立らるへきと被仰候か、石田か先勢突懸りけれは如案立られける時、田中氏馬乗廻し今度は真丸に成て掛られしか、敵方又大勢ニて
突懸り二三町程止立る、其前方より当手の御人数ハ玄蕃殿を始め山より引下し、二三町敵方へ押す比なりしに、入江平内を御使として御人数速ニ懸
り候得と御下知あり、忠興君真先ニ御乗込被成候ニ付、騎馬・歩立の差別なく、我劣らしと真しくらに成て横鑓に突掛り、悪敷馬に乗たる者ハ手ニ合兼
候程烈しき場にて、勝ほこりたる敵中ニ一騎懸けに乗込難なく敵を追返す
考ニ一書、此日陳場忠興公最前進ミ過たる事を忠隆公御諫め有、案の如く田中か勢崩かゝる、忠隆公の思慮のことくして打勝給ふと云と云々、
虚実未考、扨当手の合戦ハ此取合はかりニて、其余は皆追討の様ニ掛られ候衆ハ黒田・加藤・田中等其外彼是有之、戦ひ手砕に成中々暫時
の事ニあらす、然し初め田中氏を追立たる敵を追返し候ハ忠興君の一手ニ而之事なるへし、其時続亀之助ハ石田か先手之鉄炮頭ニ而、田中
氏を追立たる一人なり、亀之助覚書ニ、嶋左近と亀之助とかはる/\物見に出候ニ敵幾鼻も有之、いかにも競ひ懸り可申もの色々候間、味方
より掛り可申とて、三成ニ後攻候へと度々申遣候へ共、後詰無之犬死可仕舞仕合なと申候而、馬に打騎少乗出見候へは、左近手前へ百はか
り、亀之助手前へ五六十程ニ而馬入来り候、左近申候ハ、亀之助昨日・今日の貴殿の様子、去とてハ頼母敷事ニ候なとゝ申内ニ、はや敵間近
く成候間、突懸り追立候処、敵又人数入替とつと懸り候ニ立られ、続く勢も無之候間退申候、此入替候勢三齋様御人数之由後ニ承候と云々略記
右之通左近・亀之助被追返候へ共、石田か先手ハ舞兵庫・蒲生備中なと云ものを初武功之者居候間、備を堅ふして突てかゝり、嶋・続も取て
返し働候なるへし、亀之助此時の働忠興君御存被候間、御家に被召出千五百石被下、其子孫亀之助・彦大夫・庄右衛門・庄之允等なり
井伊直政は下野守殿と相俱に嶋津家の陳に突かゝらる、本多中務等も島津・小西なとか陳に向ひ、秀家の先手と正則の先手と始より取くさり、追立ら
れつ追返しつはけしく戦ひ、藤堂佐渡守等之諸将ハ大谷・戸田・平塚なとゝ勝負を争ひ、加藤・黒田・田中・忠興君等は勿論、其外先手の諸将一同ニ
旄(ボウ=ハタ)を揚、自身手を砕きての働故、士卒悉く一命を不顧、与一郎忠隆君真先に進むて御働被成候に、忠興君自身御鑓付被成候、敵を忠隆
君かけ寄せ首を取らんとし給ふニ 一ニ御自身御鑓付被成候とも有之 取なと被仰候ニより、直ニ其場を馳通り鑓を合せ働給ふ
一書、今日は首を切捨ニする筈と被思召候ニや、御側の面々迄もあまた切捨ニいたし候也と云々
又一書ニ、中路次郎左衛門ハ忠興君の御下知によつて、忠隆君に従て備を丸くして進み勝利を得給ふ、中路も鑓を合せ高名すと云々
又荒木左助猩々緋の羽織を着たる敵将と組て是を倒す、忠興公の嫡男忠隆公其首を討と云々
篠(築)山与四郎・岡村半右衛門・一宮彦三郎・山本左兵衛・松井新七郎・中路少五郎等、忠隆君ニ附て進みけるか、各敵を剪捨相働、白杉庄助・荒
木左助ハ三人迄敵を切捨る、其後左助高則ハ敵十人はかりにわたり合鑓を以働きけるか、岸の上より突落され、金の馬藺十八本の立物悉く砕け、尚
もいとみ戦ひ疵に危く見へける時、忠興君の軍士追々来て敵をはらひ、高則を救ひ出し候 御褒美の事慶長六年七月の所ニ出す、同所ニて柳田久四郎も烈く働
き、太刀打折候へ共敵を討て首を取、住江小右衛門もよく働て首二ツ討取候、杉原三平・喜多与六郎・松井家士栗坂平助等痛手を負候へ共敵を討て
首を取、牧新五は矢を折かけ大勢の敵ニ取籠られ、所々疵をかふふり候へ共、少もひるます働候処、岩間清次馳付両人にて剪払候内、新五家来久
右衛門・又三郎と申者走来敵を討、弐人共ニ首を取、清次も三ヶ所手負申候
牧か家記ニ、又大勢の敵中に討入相働首を取申候ニ付、三齋様御感ニ預り申候と云々
一書、牧左馬允・前田与十郎も首を取とあり、岩間か家記ニ、岩間清次組討ニ首一ツ取三ヶ所手負申候、同牧新五働申候節弓鉄炮きひしく有
之、大木を楯ニ取居候処、新五右の腕を籠手下共ニ射付られ難儀ニ及候を、討取可申と敵四五人 一ニ敵六人 参候を、岩間清次・岩田新左衛門
一ニ岩間又一ニ岩田新右衛門、豊前に而百石とあり 参合敵を追拂ひ、新五を射つけたる矢を切折引取せしと云々
与五郎興秋主衆に抽て進ミ給ふ処ニ、石田か鉄炮頭仙石角左衛門 一ニ角右衛門 仙石越前守秀政方ニて数度功名有、名字を召されし者也、大力ニ而鹿角の股を引折候と云
諸氏と云者、黒革の鎧胸板ニ南無妙法蓮華経と箔ニ而書、鹿角打たる兜を着、三尺余りの刀を以て近つく者手元ニ五人切伏る、与五郎殿是を見て
鑓提け馳向れ候しか、やかて引組て馬より落暫く君合給ひしか、終に仙石を組伏せ首を取て立あかり給ふ、敵是を見付左右より掛り候得共、事とも
せす追払はれ、従者各働て無恙、此働を忠隆君も御見届被成候、玄蕃殿も初より士卒を下知して馳めくり、鑓を合せ働き給ふ 一ニ首を得給ふ
御年譜ニ、古井の中へ馬を馳落し給ひしか、物ニ取付漸々に上り付、従士と共ニ二人して馬ニ細引を付引あけんとし給へ共、不叶力を失ひ給
ふ所ニ、騎馬の敵来るを見付、味方の風情ニもてなし蹴落し、其馬ニ打乗給ふ、御内の者首を取て参りけるを、か様の時追首ハ取てもよしな
きとて叢の中ニ捨させ、猶敵を追馳給ふと云々
或覚書ニ、玄蕃殿関ヶ原ニ而引退敵に、返せと詞を懸られけれは、取て返し玄蕃殿を組敷しなり、其時郎等落合敵を打取し也、のちに玄蕃殿
物語ニ足を乱さす敵ニうかと返せとハいはぬもの也、我等も関ヶ原にてかようの事有しとの物語也と云々