津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ほくり

2014-05-01 10:20:50 | 史料

 寛永五年のものかとされる、九月三日付の奉行に宛てた忠利書状がある。(熊本県史料・近世編二 p207)

                   舞臺之桜の木のきわニうへ候蘭繪ニうつし越候 参著候
                   并かゝりの庭のほくりの花三月の末ニ咲候由得其意候事 

このような記事を見ると「忙中閑」を感じほっとさせられる。小倉城内であろうか能舞台の近くに桜の木が植えられている。
その際には蘭が植えられており、これを繪師が写生してこれが忠利の許に送られたのであろう。
かゝりの庭とはこれらに関係する庭と解釈するのだろうか、ここに三月の末にほくりの花が咲いたという事を、蘭の繪に添えて報告されたのであろうか。

さてこのほくりとは皆さんご存知であろうか・・・、これは春蘭のことをさしている。俳句の世界ではこのようなかわいい言い方をする。
いつも歳時記などを眺めていると、こういう言葉も覚える。古い文書に登場する語句にも対処できてなかなかのものである。

                                         

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■下馬橋と陣橋

2014-05-01 07:25:10 | 史料

 前回ご紹介した「右手花畑邸」の写真の真正面には、下馬橋が架かっているのだがはっきりしない。
肥後国誌によると下馬橋については次のように記されている。

    花畑館前ノ北厩川 坪井川ヲ云下ヲ船場川ト云ノ橋ヲ云 此橋元ハ土橋ナリ 又府外陣ノ橋ハ板橋ナリシヲ此所ニ移シ陣ノ橋土橋トス
    此橋柱ニ万治元年十月日ト銘アリ 此年ヨリ板橋ト為タリト見ユ

かって下馬橋について■花畠前之橋出来・・・を書いたが、これによると下馬橋は寛永十六年に完成したと有り、上の記事と食い違いを見せる。
寛永十六年の完成とは土橋であったのだろうか。

陣橋に付いても井芹川・陣橋 ・ 陣橋 と二度にわたってふれたが、この橋は砂薬師坂から本妙寺や嶋崎方面へ出る大切な橋であった。
この橋を解体して下馬橋で利用したという事は、井芹川の幅も同様の広さがあったという事であろう。今では一間ほどの小さな流れの上に名残を留めている。

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