今月の史談会例会は清田泰興氏をお招きして、「飛行機のことや、飛行機の旅又江戸時代の三貨制度」についてお話を伺ったが、会員以外の多くの皆様もご参加をいただき大賑わいであった。いつもの歴史ずくめの堅苦しい雰囲気もなく、時には笑い声が聞こえ、間断ないQ&Aもあり誠に楽しい時間を過ごした。御迎えした責を果たしたと、誠にうれしい限りであった。
大成功の裏に、今後の史談会の運営を考えさせらた次第でもある。清田様、ご出席の皆様にただただ感謝申し上げる。
細川家を「前々から不埒なる御家柄にて・・・」と、豪商越後屋の三井高房がその著「町人考見録」で痛罵している。享保十三年の刊行であるから、時の藩主は宣紀である。先代綱利の隠居に伴い正徳二年七月に家督を相続している。このような刊本を果して読んだかどうかは知る由もないが、家中には噂として広がっていたのであろう、上妻文庫にその写本が残されている。忸怩たる想いであったろう。
いわゆる「大名貸し」で多くの商人が貸し倒れをして身代を潰したとされる。
細川家に単独で大名貸しをした石河自安、 二村寿安、糸屋十右衛門、家原自元など四名の名が上げられている。又、辻 次郎左衛門は前田・細川・浅野家、三井三郎左は紀州徳川家・ 細川家、吉野屋惣左衛門は細川家・ 黒田・立花家への大名貸しによってとされる。
何といっても細川家がその筆頭であるのが何ともいただけない。
「緒方夫右衛門筆記」「吉村文右衛門覚書」「国武覚書」などの提言・諫言の書ともいうべきものが多いのも綱利・宣紀・宗孝・重賢公治世代である。
天草島原の乱につづく、長崎和蘭船入港警備の出兵、天下普請、参勤交代、加えて綱利やその生母である清高院の浪費癖がその原因の一つでもあろうが、今一つの原因は綱利・宣紀の沢山の女子の結婚費用もあろう。
宣紀公の生活ぶりは大変質素であったと伝えられる。その治世の頃にこの本が発刊されているのが、なんとも痛々しい。
宗孝公の時代も同様であったろう。誠に不幸な死が訪れるのだが、部屋住みの弟・重賢公の登場は歴史の偶然とは考えられない様に思える。
合せて堀平太左衛門他多くの優秀な人材の登場も同様である。起死回生の秘策はまさしく人材にあった。