津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■西遊雑記巻之五(肥後) ・8了

2014-05-29 09:14:02 | 人物

坊中より阿蘇の宮え二里
名高き舊地の阿蘇宮なから至極の僻地其うへ
平地の湿地にてミち/\はいふに不及社地のまはり
に草生へ茂りて見苦舗ク御社も上方筋の社にくらへ
見れは小社にて何を見て目をよろこはせんや
うなし鰯の頭も信心といへと社頭はいかにも結構
なるか山深く瀧雅石なと有りてしん/\粛々と
せざれは信心気生しかたきものにて此御社の地は
田家の中にてもの淋しさいはんかたなし 熊本侯
より地かたにて千石御寄付にて三百石大宮司の食
地とし残る七百石を二十一家の社人九人の巫女配分
して食地とす 高砂のうたいに顕せし友成の子孫
今以て大宮司にて社人の長たり 此家へ立寄り古しへ
の面白き事蹟もあらんやといろ/\と尋聞しに
所の辺鄙なれは人物も俗物にて取り書加ふへき
物語りはなかりし也
豊後と肥後の界は片股村といふに有り
坂なしといふ所に肥後へ入関所有りて此口にて往来を改るよし土人の方言に大坂に      引用した文書ではこの部分が欠落している
坂なし坂なしに坂有りとて豊後より坂なしへ入る
には片坂にて険阻の下り一里半豊後の国は肥後の
国より高き土地と云之 九州は南海の帯せし国に
て暖国のことと思ひしに阿蘇郡は冬月になれは
年によりて雪の積ム事七八尺におよふと土人
おの/\のかたる事也 雪は山岳のかまへによりてつ
むと聞しが左もある事なり 九州のうちにて雪の
八尺もつむとは珍しき事也 在家に入りてよき
家を撰りて止宿せる事なから夏にても蚊屋
をつるといふもなし 青草を大竈の下へ入レて
家内をふすへて打倒/\寝る事にて戸もなく
壁もなく気さんしなる身のうへなり 此書を見
る人いつはりと思ふべけれど筆にては書とり
かたき僻地也 寒盡れとも春を知らすとはかゝる所
なるへし
阿蘇の宮より熊本の城まて行程十三里余此辺
数里のうちには名所舊地もなきと聞きて元の
ミちへ引かへしぬ
肥後のひょうたん鍬とて 図□ かくのことし土地に
よりて便なるや他国にて不見
阿蘇郡草はかりの山おゝく牧場有る事也
肥後と薩州何レか勝レる国ならんとミち/\思ひくら
へしに肥後劣れりいかゝの事と知らざれとも肥後
に入りては百姓の家居あしく所/\に崩レ家多
し田所の高免なるか働のあしきなるやいまた
委しからざりし

熊本より山鹿まての宿/\至て見苦敷事也 高
瀬通り山鹿通りと弐通有り 南の関江出るに行程
遠近なし 薩摩侯求摩侯は山鹿通り御往来なり
山鹿は大概町にて南に山鹿川と云有り 舟渡
しの川也 町の中に温泉有り初にいふことく肥後
には温泉数ヶ所有り有り何れも入り心よき温泉なから
他国より入湯せる人の来らさるは功なきゆへなる
へし
南の関に至る古しへは松風の関といひし所にて
當国の名所也 また小流の川有り墨摺川といふ
是も名所のよし宿のあるじ少し風流有りて哥よめ
といふ拙き身にて叶ふましと辞せしに強ての
そみしゆへに

   うち渡る墨すり川は名のみして古ならぬ御代に

                   すめる里人

   いつしかに秋知りそめて吹かゆら音にも高し
                   松風の関

少し北の方に肥後筑後の国界有りて熊本侯
の御番所有り国界の南北に標木有り是より
熊本札の辻まて十一里八町九間と有りしかれは
薩州の国界より何族卅六里十町十八間の国に
て東西は米良・五ヶの庄・日向につゝきて深山幽
谷其界未詳大概をいはゝ廿七八里もあらんか
豊後より日向・大隅・薩摩此四州上方中国筋に
くらへ見れは甚タ劣りし下国にて人の気象
は質朴なるへし
六月十八日當国水股に入りて爰かしこに滞し
て七月朔日筑後の圀に入る也

西遊雑記五之巻終 大尾

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■借金の申し込み

2014-05-29 08:10:52 | 史料

 借金に関する史料に出くわすと誠に心が痛む。年代から考えると天下普請に関する資金の調達であろう。(綿考輯録・第四巻 忠利公・上 p459~460)

                   わさとひきゃくを以申入候、来年御普請のため、金子ならハ五千両、銀子ならハ三百貫目かり申たく候、
                   壱年三歩之利息にて来年中に元利すまし可申候、はやく銀子とゝのひ候ハゝ、その月にしたかひ右之
                   りぶんのさん用にすまし可申候、しゃく状あて所ハそもしあて候ましく候、くはしき事ハ 三齋さまより御
                   申候へくそうろう、かしこ
                       (寛永十二年)八月十二日
                              あら川殿
                   (御自筆)
                   尚々、わけ見へ申様ニ人にかゝせ申候、金子ハ五千両にてハこれなく候、くハしくはしゃく状にかき申候
                   事ニ候、已上 

この借金の申入れ先は、忠利の妹で烏丸光賢室・万姫に対してである。あら川とは万姫付の老女で、細川家から付けられた人であろう。
本文は祐筆が書き、尚々書は忠利に自筆であるが、本当の借金の額は違った額でまだ多額なのであろう。

寛永十三年の普請の詳細については、銭亀橋と御成橋見付枡形で書いた。

御成橋見付桝形は幸橋門として紹介されている。(細川家は石垣のみ、櫓は津軽家が担当)

                                       江戸城三十六見附から


 

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