大日本近世史料・細川家史料24によると、寛永十五年九月廿一日、忠利は都合22通の書状を発している。当然のことながら祐筆が認めたものであろうが、指示・確認の作業を伴う重要な書状であるから、忠利の苦労もしのばれる。その筆頭に有るのが、九月九日烏丸光賢が亡くなったことに対して、妹・萬を思いやる忠利の心情が伝わる書状である。同文で淨勝院と秦鄰室に宛てた書状である。
からす丸中なこん殿之儀承、おとろき入候、ぜひなき仕合、申へきやうもなく御さなく候、
萬こと長しゃうしん(傷心)なと仕、心悪候ハん間、はんし御いけん候て御心付なさるへ
く候、侍従殿(烏丸資慶)ハわかく候間、まん十はう(途方)これあるましきとそんし、笑止
成事申へきよう御さなく候、かしく
淨勝院は「しやうせう院」と表記されているが、萬の伯母(三齋妹)で吉田兼治室・伊也のことであり、秦鄰(吉田浄慶の子。字は有室。秦宗巴の養嗣となる。慶長十四年家康・秀忠に目見得、侍醫となる。法印。寿命院。寛文八年五月二十日歿。年四一。)室とは「壽命院(息・秦秦石)御ふくろ殿」と書かれている。
先にも記したが去る七月七日には烏丸光廣も亡くなっており、義父・夫を続けて亡くした妹・萬の傷心を心配し身近な二人の女性に対して配慮を頼んでいる。忠利の思いやりの書状に心をほっこりさせられる。
そして昭和十九年、舅・姑そして夫の三人を病で失った、母の無念であったろう事に想いが及ぶのである。