津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■思いやり

2014-05-10 12:38:17 | 史料

 大日本近世史料・細川家史料24によると、寛永十五年九月廿一日、忠利は都合22通の書状を発している。当然のことながら祐筆が認めたものであろうが、指示・確認の作業を伴う重要な書状であるから、忠利の苦労もしのばれる。その筆頭に有るのが、九月九日烏丸光賢が亡くなったことに対して、妹・萬を思いやる忠利の心情が伝わる書状である。同文で淨勝院と秦鄰室に宛てた書状である。

   からす丸中なこん殿之儀承、おとろき入候、ぜひなき仕合、申へきやうもなく御さなく候、
   萬こと長しゃうしん(傷心)なと仕、心悪候ハん間、はんし御いけん候て御心付なさるへ
   く候、侍従殿(烏丸資慶)ハわかく候間、まん十はう(途方)これあるましきとそんし、笑止
   成事申へきよう御さなく候、かしく

淨勝院は「しやうせう院」と表記されているが、萬の伯母(三齋妹)で吉田兼治室・伊也のことであり、秦鄰(吉田浄慶の子。字は有室。秦宗巴の養嗣となる。慶長十四年家康・秀忠に目見得、侍醫となる。法印。寿命院。寛文八年五月二十日歿。年四一。)室とは「壽命院(息・秦秦石)御ふくろ殿」と書かれている。

先にも記したが去る七月七日には烏丸光廣も亡くなっており、義父・夫を続けて亡くした妹・萬の傷心を心配し身近な二人の女性に対して配慮を頼んでいる。忠利の思いやりの書状に心をほっこりさせられる。 
そして昭和十九年、舅・姑そして夫の三人を病で失った、母の無念であったろう事に想いが及ぶのである。 

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■細川家家臣坂崎家系図(肥後讀史総覧所載)の疑義

2014-05-10 07:14:28 | 人物

 いろいろ書き込みなどをしているが、鶴屋百貨店が刊行した「肥後讀史総覧」の「細川家主要家臣」にある坂崎家の系図である。
前々からこの系図にいささかの疑問をもっていたのだが、新刊の「大日本近世史料・細川家史料24」を見るに及んで疑問が確信となった。

巻末・人名索引に坂崎成方と清左衛門が登場している。

   坂崎清左衛門  細川家臣。坂崎道運嫡子。忠興により召出さる。知行千石。のち二千石に加増。忠利代に小姓頭役。光尚代に番頭役を勤む。
            その後、寛永二十一年蘆北番代。承應二年同地にて没。 (先祖附・永青文庫「御郡方文書」・同「御老中より被仰出覺書」)
   坂崎成方   細川家臣。内膳。成政。肥後國衆城清助が男。初め岡田虎之助。十三歳の時、豊前にて忠利に召出され知行四百石。坂崎道運嫡子
            清左衛門が養子となり坂崎内膳、兵庫と名乗る。七百五十石、さらに千六十六石餘に加増。小姓頭。養父没後遺領二千石を継ぎ、清
            左衛門と名乗る。綱利代千石加増。備頭。のち家老職を勤む。天和元年隠居、栖山と號す。二年没。
                                 (先祖附・松井文書・熊本藩侍帳集成・永青文庫「御老中より被仰出覺書」・細川家記續編) 

この系図は、先年坂崎家の分家筋の方といろいろやり取りをする中で、随分親しんで来た。先祖附をよく読み付きあわせをすればよかったのだが、系図に疑問を持ちながらも今日に至った。今回「細川家史料24」を読み、改めて先祖附を読み直して、先の坂崎家系図は初代と二代が入れ替わっていることを確信した。 

                                                      肥後国一揆衆・城清助(岡田源大夫)男
    坂崎伝助     道雲          (1)          (2) 岡田善同二男(養子・虎之助)→坂崎内膳 
  藤原成基---+---成方------------成定==============(養子)成政・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→2,700石坂崎清家
          |              清左衛門・承応二年没             天和二年三月二十五日没
          |
          |  (1)                     (2)                  (3)
          +---勝定------------勝是------------勝秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→御中小姓坂崎半兵衛家
          |
          +---基之原城にて討死(29)

(2)成政は肥後国一揆衆城清助・男であるが、秀吉の人質となり後岡田善同の乞う処により助命され養子(二男)となった。
その後坂崎清左衛門の養子となったが、これは善同の父・重善が小豆坂七本槍の高名者であるが、坂崎伝助も七本槍の一人だという説があり、その事をもっての養子縁組であるとするが定かではない。(小豆坂七本槍に坂崎伝助の名は見えないが・・・?) 

この坂崎家は坂崎出羽守直盛の一族であることは先に書いた。一層の調査を重ねたいと思う。

 

 

コメント (2)
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