津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■西遊雑記巻之五(肥後) ・7

2014-05-28 06:05:56 | 史料

阿蘇の宮阿蘇嶽一見せしと大津へ志し出立熊本
より大津まで五里此道は平地にして街道廣サ三
拾間ばかり左右に土手有り並木ミな/\大樹にて
もみ此外雑樹も多し 云ヒ傳ふ清正朝臣奉行
して此道をつくりけると云之其時より道も狭く
せす並木もきらすして其まゝのかた也日本第一と
いはんひろ/\せし街道也 太守御参勤交代此
ミち筋より豊後の鶴崎へ御往来有り所/\に見
苦敷小家も多し茶屋も稀にて淋しき道也 大津ハ
三百軒はかりの在町也大津より東二里半にかふの水
と云登り下り一里半の坂有峠より西のかたに肥後
肥前の海を見る 阿蘇郡に入りては一国のうちな
から風土大ひに替りて甚タあしき所にて百姓家に
戸をたてし家は稀にて竹のくミ戸を図のことく
して土間住にて見るも哀れの躰也
     草ふきに竹のあみ戸にて雅にも見ゆれ
     とも壁もなくかやをかきつけてうちのてひは
     上方筋の乞食ごやのことし

肥後の国町場/\の入り口に    如斯の竹のあげ
戸有り何故と尋しに古へよりも町の有りしといふ
しるしと云之 盗むへきものもなき百姓の家居に而
盗賊なとゝいふはなし 村/\に太鼓有り是も上方
中国筋の製とは異なり
     かくのことくくさひを以皮をとじし
     ものにて素人ばりにせし太鼓なり
阿蘇一郡にて今二万八千石の地といへとも東西凡十里
余廣大なりといへとも山はかりにて原野も数多ニて
笹倉なとゝいふ原はむかしの武さしのの原と称せ
しはかゝる原ならんと思ふはかりの廣/\とせし
所也土人の物語には開田せは阿蘇郡にて十余万
石も出来すへき平地有る所なから人のなき故に
古田も年/\にあれ果るといひき 近年うち続き
凶年にて餓死せしもの数多有りしといふ いかにも
實事と見へ住捨し明家も爰かしこに有りし也
他国の評はんには當国の守は賢君にて経済役堀
平太左衛門といへる良臣のやふに聞侍りしに阿蘇郡
のもやう民家数人飢餓し死におよふまても救ひ
給はざりしにいかゞの事にや虚説もあらんかと
委しく尋聞しに熊本へ出て乞食せんとて老
たるもおさなきもうちつれ出しミち/\にても■路に
倒れふして死せしものも有りしに違ひなき実事也 予
茂爰におゐて疑惑しに仁政はなかりしものと
思ひき卑賤の身をしてかく記し置は高貴を
誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた
諭ふに似たれは僅にしるすならし 此辺は幾里行
ても華咲草木もなく土色は黒く水のなかれも濁
水にて清からす谷/\におゐて菖蒲の花を見し
はかりにて日本のうちにもかゝる下々風土も有る
ものかなと驚し所なりし

阿蘇山はさしての高山にはあらされとも古しへゟ
も燃る山にて其名世ニ知る事也すへて燃る山は
硫黄山にして臭気甚し数年燃ては大山にせ
よ尽へきに造物主のなす事にして尽る事
さらになし小かしこき人の癖として天地の事に
いろ/\の理をつけ理をうかちて大言をいふ事
有り何れを聞ても尤のやふにてミなし此方より
付し理にして世に云私なるへし 坊中の町より
休所のこやまて曲道六十余丁といふ休所に至り
て見るに煙を吹出せる洞数百間真黒に見へて
煙を吹出せる勢ひおそろしけに見ゆ 春秋はつよく
燃へ夏ハよはしと云闇夜は火のひかり有りて
晝は煙はかり也凡四五里の間へは煙を見る事也
土人の物語りに今年より四年以前地うごき
なりて煙に交りて灰を出す事おひたゝしく
地上五六寸もつもり山のうち雷のことくになり
ひびく故阿蘇郡の村/\逃去らんやいかゝせんやと
爰にも集りかしこへも群集して日/\いかゝせんと
人心もなかりしにさすかすミなれし家宅を捨て
他方も行がたく死なは一■と忙/\とくらせし
うちにいつとなく山もしつまりし故安堵の思ひ
有りしに牛馬は山近き村/\にてハミな/\死せし
事也 是は灰のふりかゝりし草を喰ひし故と云之
此辺の石は赤色にて他国の石とは異也図せる所の
草木なき山はふすほりしやうに見ゆる事なり
山形も嶮にして信州浅間山とは違へり麓に山伏
寺卅家頭は座主と称して熊本侯より百六十石
之御寄付地有り坊中といふ僅の町有り宿屋も
見へ侍りし也此山の開祖は元三大師にていろ/\
の宝物も有るよし常に参詣も有る所なり 燃る
洞を上宮と称して山の霊を祭りて願望せると
云 少し解せず
坊中へ下らすして休所より南の谷へ下れは湯谷
といふ所へ至る此地には温泉有りといへりそれ
よりやまつゝきに皿山と称せる有り此山の岩は
大小ともに凹にして丸きはなし 予此所へは行
す坊中の町にて皿石と称せる小なる石を三ッもら
ひて国のミやけにせし也 すべて肥後は大国ゆへ
に奇石の出る山多し こなたの麓より西のかたを
千里か原といふ 三里の荒原なり 土人の物語り
に怪談有り 爰に略之世に云住は都にてかゝる所にも
人里の有る事やと首(こうべ)をたれて古郷を想ふ情有りき

坊中より阿蘇の宮え二里
名高き舊地の阿蘇宮なから至極の僻地其うへ
平地の湿地にてミち/\はいふに不及社地のまはり
に草生へ茂りて見苦舗ク御社も上方筋の社にくらへ
見れは小社にて何を見て目をよろこはせんや
うなし鰯の頭も信心といへと社頭はいかにも結構
なるか山深く瀧雅石なと有りてしん/\粛々と
せざれは信心気生しかたきものにて此御社の地は
田家の中にてもの淋しさいはんかたなし 熊本侯
より地かたにて千石御寄付にて三百石大宮司の食
地とし残る七百石を二十一家の社人九人の巫女配分
して食地とす 高砂のうたいに顕せし友成の子孫
今以て大宮司にて社人の長たり 此家へ立寄り古しへ
の面白き事蹟もあらんやといろ/\と尋聞しに
所の辺鄙なれは人物も俗物にて取り書加ふへき
物語りはなかりし也

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■米田新十郎という人

2014-05-28 06:04:38 | 人物

寛永十年九月十二日、忠利は肥後入国後初の参勤に出立するに当たり、證人として米田監物是季の二男新十郎を召連れている。
是季は慶長十五年、忠興の御意に叶わぬ事があり小倉を出奔、大坂の陣では西方に付くなどし、元和八年忠利が帰参させた。
米田是季の再仕官に詳しく書いたが、この時期二男新十郎は生まれていない。寛永三年の生まれだろうか。

  新十郎、幼名宮松後助右衛門是正と云、当年八歳也、於江戸光尚君甚御懇ニ被仰付候、寛永十二年正月疱瘡煩候ニ付、公儀之御医師徹斎御紹
  御薬服用仕、光尚君御疱瘡軽ㇰ御仕廻被成候、御吉例とて兎之足拝領、病中日々御使被下候、同十五年之秋十三歳之時、御下屋敷ニ而囚人を
  新十郎ニ御きらせ被成候、公儀之人斬と光尚君御差図ニ而首尾能相仕廻、御機嫌能被成御座候、惣而色々御懇共にて小屋にも度々被為入、拝領
  物度々被仰付、忠利君よりも拝領物被仰付候、慶安五年弟米田宮内証人かはりとして罷越候ニ付、新十郎ハ御国ニくたり申候、翌承応二年七月新
  知千五百石拝領、寛文七年七月三千五百石御加増、五千石ニ而御家老ニ被仰付、大組をも御あつけ被成旨、長岡左近(忠利弟・南条元知)を以被
  仰付、名を助右衛門と改申旨被仰出候、惣而綱利公種々御懇ニ而、拝領之品数度被仰付、屋敷ニも度々被為入候、延宝七年病身ニ成、御役御断
  申上、願之通隠居被仰付、弐百人扶持に千俵拝領、飽託郡宝還村野屋敷ニ引移、剃髪して助入と改、天和二年六月十一日五十七歳ニ而病死、法
  名法成寺雄岩助入と云、子孫無之名跡断絶 

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