明日の史談会例会では「三貨制度」についても勉強することに成るが、いろいろ本など読んでも理解が出来ないでいる。
雑事紛冗解に、「天明元年(1781)丑八月、御祝ニ付惣御役者江被下候分 五百貫文 金ニ〆八拾両ト弐貫文程」という短い記事がある。
重賢公の時代であるが、御能が催され役者たちに下し置かれた金額が示されている。五百貫文は単位から「銭」であることが判るが、498貫文が80両だというのだから、
当時1両が6.225貫文であることが判る貴重な史料である。
熊本県史料・近世編二から、お金にまつわる色々なことをピックアップしてみた。
■寛永六年(1666)八月十一日、忠利から浅山修理・田中兵庫への書状(p158)
借銭之當年の積書付可越由申候つる何とそ調不申候哉 七月までの借銀之高千八百廿貫目有之由京より申越候様子急便ニ可申越候
■寛永八年十二月廿九日付、三齋から忠利宛書状(p46)
飛鳥井殿ニ御入候御姫之金小判貮千両誰ニ成共かし度由候 家中之者共ニ成とも御かし候者京にて渡可申候 利ハ惣様之借候なミ
たるへく候 返事ニより期日便宜在之候間可申遣事
■寛永九年二月八日、忠利より松平右衛門・伊丹播磨守宛て 「忠利公江従 台徳院(秀忠)様為御遺物被下候銀子也」 (p351)
五千枚之銀子今日請取頂戴仕候忝次第御座候 可然様御取成頼入存候 恐惶謹言
■寛永十年正月廿九日付、酒井讃岐守宛忠利書状 江戸御屋敷御類焼ニ付御拝領之事(抜粋) (p355)
態以使者申入候 我等屋敷火事付而為 御使柳生但馬守殿早々被下銀子三百貫目拝領仕候 忝仕合可申上様も無御座候(以下略)
■年代がはっきりしないが、文中に「稲葉丹後(守)殿御煩」とあるから、寛永十年の書状と思われる。忠利から松野織部・町三右衛門宛書状
其元作事ニ金子大分入候由金子ハ無之拝領之銀子ハ候へ共今程小判ニ高直(値)ニ候故小判之代ニ銀子拂候事如何と
丹後殿(老中・稲葉正勝)ニ而當分かり候て京ゟ金子下次第拂可申得其意候事 (寛永十年)六月廿日
後の記録によるとこれは江戸城の作事に係るもので5,000両をどこからか用立ててもらっているが、春日局やその伝手を頼りびくにん(比丘尼)
衆からでも借りたらどうかと指示している。(p137)
■寛永十一年十二月八日の書状によると、忠利は馬を買い入れている。(p176)
六鴇(とき)毛之駒壹疋代金貮拾七両ニ取候由得其意候事
■寛永十二年正月廿一日付、忠利より松野織部・町三右衛門・田中兵庫・横山助進宛書状
旧冬 上様ゟ女共(正室保寿院・秀忠養女)ニ歳暮ニ銀子五十枚・綿百把拝領春日殿ゟ美濃帋三拾束・白鳥給候就其判紙にて
春日殿まて礼可申遣由尤候事
■寛永十二年九月七日付、忠利より河喜多五郎右衛門宛書状
禰ゝ長崎にてのかい物之代銀拾貫目程入申由にて取替遣由重而目録可差越由得其意候事
■寛永十三年八月三日付、忠利より小笠原備前・浅山修理・横山助進宛書状(p177)
新銭之儀六月朔日ゟ取遣可仕由被 仰出候へ共于今然〃取遣無之由得其意候事
■寛永十四年正月十日付、忠利より有吉頼母佐・長岡監物宛て書状(p266)の猶々書
にせ銀子仕候ものせんさく相極必定ニおゐてハ其身ハはつゝけにかけ申候 妻子ハ不残成敗可申付候 科の様子ニより妻子共ニ
はつゝけニかけ可申により候而國のおさめに成候様ニ可申付事干要候以上
■寛永十九年閏九月十一日奉行中宛 (p365)
大鷹之兄を壹居西郡要人者うち上候為褒美銀子三枚可遣也
■寛永十九年十二月廿九日奉行中宛 (p371)
天草・島原へ遣百姓百人ニ銀子貮拾貫目遣候間可相渡者也
■寛永貮拾年三月十四日奉行中宛 (p385)
金大判壱枚勝千代(忠利末子)南條大膳所へ馬代ニ遣候(以下略)
■寛永貮拾年(1643)三月十五日奉行中宛 (p386)
古勘解由(沼田延元)豊前ニ而銀子七貫目借り年々相残テ四拾四貫九拾目余勘解由ニ遣候事
■延宝二年(1674)六月廿五日付 生駒新九郎江戸御用被仰渡覚書(p314)
一、京・大坂・境又ハ御國内ニ而も日田銀之ことく當分銀子を差上五三年過候而元利ともに一度ニ拝領可仕と申者候ハゝ少々ハ高利
ニ當り候へとも役人共内々讃段仕置可申候事
一、當年御借被成候三百三拾貫目之元利三百九拾六貫目并御郡用米之利分同元之内六拾貫目余都合五百九拾貫目取立五百貫目
ハ當暮之御積ニ加可申候九拾貫目ハ三井銀三百貫目之利銀ニ拂可申候