細川家家老米田家の二代目是政の弟に、與右衛門是門がいる。藤十郎とした方が通りが良いかもしれない。
青龍寺城で生まれ幽齋に可愛がられた。幽齋の田邊城籠城の際には共にしている。
寛永元年忠利は小倉大橋架橋を命じた。
■八月二日 林弥五左衛門登城ニ而、大橋作事ニ近日取付申候間、小屋かけ申ニ・・・・(以下略)
■八月四日 大橋御作事今日ゟ被仰付候、御奉行ハ遠坂関内・町市丞・高田十兵衛・窪田與介・今日ゟ小屋かけ申事
■八月十五日 河田八右衛門・(林)弥五右衛門登城、大橋之板出候儀、町人出可申旨 御諚ニ候へ共、其節ハ大坂御普請衆罷下申間敷故ニ、
町人ニ出せ候へとの 御意候、御普請衆も罷下候間、町人ニ出候儀成間敷之由、米田與右衛門被申候由、八右衛門申候、左候
ハゝ、御家中御役人ニ可申付候哉との儀ニ候事
(途中経過略)
■九月九日 大橋普請相済候て、人返候様ニと、被申付候事
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後又この橋の普請が行われているようだが、破損などの修復でもあろうか・・・、しかしその着工などについて日帳では確認できない。そして工事の経過も判らないが、事は意外なことに発展した。
小倉大橋御普請之儀、林弥五右衛門被仰付置候所、人足出し候様ニとの儀を弥五右衛門より与右衛門に申候由、然処御印を以不被仰出にハ
人足出し申間敷旨、兼て被仰付置候二付、その段申聞、人足出し不申候、忠利君御帰国之上、大橋御普請遅滞之儀を被仰出候得は、弥五右
衛門右之訳を委細に不申上、与右衛門人足を出し不申故、御普請出来不申と申上候ニ付、御機嫌損し、御役被差除、御知行も被召上候と云々
上記理由に寄り、寛永六年五月與右衛門は知行を召し上げられている。奉行所の「日帳」(福岡県史・近世資料編「細川小倉藩二)からその後の経過をたどってみる。
■五月二日 米田與右衛門尉知行を被 召上候間、御代官ニ引渡可申旨、御年寄衆迄被成 御書候由、御家老衆ゟ被仰渡候事
■五月六日 米田與右衛門殿ゟ、吉田縫殿を以被仰越候ハ、私知行被 召上候、左様ニ御座候へハ、私家を上ケ申度候間、御年寄衆談合仕、
請取候儀ニとの儀候、篠崎三ノ丸辺にて候ハゝ、か様ニハ申上間敷候へ共、御本丸同前之やしきにて候間、上申度と存候との事
也、(田中)兵庫返事申候ハ、修理ハめしをたへられ、登城被仕筈候、上り被申次第、其通可申候、先心得申候と申候事
■五月七日 米田與右衛門尉方ゟ被申越候ハ、御用之儀被仰付候書物なと入候たんす壱つ、并目安箱壱つ上ヶ申候、御用茂不承候ニ付、右
之通ニ候間、御請取置被成候へ之由、申来候ニ付、則こま物奉行ニ請取せ候也
■六月十日 米田與右衛門尉殿家上ヶ申度由被申通を、江戸へ申上候へと、式ア殿にて三人之御年寄衆被仰渡候事
■八月五日 米田與右衛門殿ゟ、吉田縫殿を以被仰越候ハ、家屋敷相渡申度候間、請取候者申付候様ニと被仰候間、得其意申候、請取せ可
申通申候事
これを以て與右衛門は米田家当主で甥の是季のもとで入道し宗伯と名乗った。三年後の寛永九年八月二十五日没・62歳。実直な人柄で有ったろう事がが伺える。