先に田中左兵衛のことを書いた。「福岡県史料・近世編 細川小倉藩(一)」の奉行所日帳、寛永四年二月七日条に若いころの左兵衛の記事がある。
田中猪兵衛(左兵衛)大坂へ罷上候、就夫、手前不罷成候間、御米拾石被借下候様ニと、彦進・甚丞を以被申理候、
旅へ被遣衆と候て、御借米不納有之衆ニ、左様ニかし候ハゝ、れいニ可成候間、如何之由候事
後には島原の乱の原城攻撃で高名を上げ、4,150石の禄を食み初代の熊本城代になった人物だが、この時期は100石取の身分である。
大坂へ罷上るにつき、米拾石を借りたいと申し入れるが、すでに借りている借米がまだ返されていないので、そんな人たちに貸すという事は「前例」になるのでまずいというのである。父親(養父)は当時の惣奉行・田中修理亮である。
同九日
田中勘丞被申候ハ、猪兵衛(田中氏久)事、上方へ被遣候ニ付、国東ゟ出船仕候、左候ヘハ跡の仕置□之様子をも承置、
見立旁々罷越度候、爰元御用之儀は、相使ニ具ニ申置候由、被申候間、被参、早々仕廻可被罷戻通、申渡候事