津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■田中左兵衛のこと (二)

2014-05-15 10:53:30 | 人物

先に田中左兵衛のことを書いた。「福岡県史料・近世編 細川小倉藩(一)」の奉行所日帳、寛永四年二月七日条に若いころの左兵衛の記事がある。 

   田中猪兵衛(左兵衛)大坂へ罷上候、就夫、手前不罷成候間、御米拾石被借下候様ニと、彦進・甚丞を以被申理候、
   旅へ被遣衆と候て、御借米不納有之衆ニ、左様ニかし候ハゝ、れいニ可成候間、如何之由候事

後には島原の乱の原城攻撃で高名を上げ、4,150石の禄を食み初代の熊本城代になった人物だが、この時期は100石取の身分である。
大坂へ罷上るにつき、米拾石を借りたいと申し入れるが、すでに借りている借米がまだ返されていないので、そんな人たちに貸すという事は「前例」になるのでまずいというのである。父親(養父)は当時の惣奉行・田中修理亮である。

同九日
  田中勘丞被申候ハ、猪兵衛(田中氏久)事、上方へ被遣候ニ付、国東ゟ出船仕候、左候ヘハ跡の仕置□之様子をも承置、
  見立旁々罷越度候、爰元御用之儀は、相使ニ具ニ申置候由、被申候間、被参、早々仕廻可被罷戻通、申渡候事
 

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■磯部長八郎消息

2014-05-15 09:58:06 | 人物

 磯部長八郎は我家初代・庄左衛門の実兄である。
以下の史料から、長八郎がこの時期江戸詰であることが判る。

 寛永六年二月十三日、奉行所日帳(福岡県史・近世資料編 細川小倉藩二 p160)

   一、御鉄炮衆町田吉右衛門・田宇右衛門、今日江戸江遣候、御能衣装并五つ持せ遣候、言上其外状とも相渡候
      一、磯部長八郎へ野田源四郎ゟ、御硯のよしにて壱包遣候を相渡ス
     (以下七項目 略)
     右之分、飛脚ニ相渡候也

尚、同十日の項には
   一、野田源四郎方ゟ御硯壱つ、江戸へ便御座候ハゝ、御上可被成と申、飛脚ニ持せ被越候、請取置申候

          野田源四郎  (1)供之者・御扈従与也・四番 百五十石 (於豊前小倉御侍帳) 
                    (2)御小姓組衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)
                    (3)御馬廻衆九番・松野右京組 百五十石
                       細川忠利公判物(寛永二年)百五十石--豊前 

長八郎は御扈従組・一番で番違いではあるが同僚である。仲がよかったのだろうか?
たったこれだけの事だが、身内の消息と言うのは大変興味深い。 

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